「愛」と「空」のこと。
愛と言うのは、「空」のことだ。
僕はよく「愛」という言葉を使う。たぶん、胡散臭いと思われているかもしれないけれど、愛について書かずにはいられない。
僕は書くところの「愛」というのは、「私がいない」ということ。エゴがないということ。
特定の誰かに対する愛ではない──街中で流れているポップスの歌詞にあるような恋心ではない。
愛をほんとうの意味で感じられるのは、握りしめている「わたし」が消え去った時。その時、初めて「愛」が何か分かる。それは実際にハートを通して感じられる。
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その日、僕は図書館の窓際の座席に座りながら、頬杖をついて、外を眺めていた。夢の中のおぼろげな景色のように瞑想的な夏の午後だった。
そして、見つめているだけで呼吸が深くなるような深緑に染まった銀杏の街路樹が風を受けてなびいていた。
そんな自然の風景を観ようともせず、ただ眺め、蝉の声を聴いていると、僕はいとも簡単に「わたし」というエゴを失うことができた。
「ミ──ンミンミンミンミ──ン」という蝉の声をまず聴く。それから、聴こうと言う意志を手放し、その声と一つになる。
すると、蝉の声が聞こえているのに、自分の内側では静寂があることに気づく。
蝉の声と一つになってしまえば、「聴いている自分」と「窓の外で鳴いている蝉の声」は分離していない。だから、僕は五感という感覚器官を超えて「空」になる。
そこには、ただ一つの静けさがあるばかり。
静けさが何か分かれば、たとえ、ニューヨークのタイムズスクウェアや、渋谷のスクランブル交差点を歩いてたとしても、そこに静寂があることが分かる。
全ての生き物が「存在」という一つのいのちのあらわれとして、ダンスを踊っているだけだと分かる。
蝉や小鳥たちは梢の上で歌を歌い、夕立がやってきて雨を降らす……。
世界に分離はなく、ただ一つの永遠のいのちがただそこに在る、ということに気づいたとき、「愛」がどういうことか分かる。
僕は蝉の声を聴きながら、あるいは、街路樹を眺めながら、その図書館で愛の深まりのなかにいた。そして、その愛は特定の誰かや状況を必要とせず、この文章を書いている今この瞬間も愛として、ここに在る。