【ジャズのリズム:その4】崖っぷちに一人で立てるか
ジャズのリズムについて少しずつ書いてきました。もちろん、文章で伝えることはとても難しい。私の表現力の拙さもあります。そして何よりも、私自身もまだまだ未熟ということもあります。だから、じゅうぶんうまく伝わらなかったり、思わぬ形で誤解されてしまったりすることもあるかもしれません。しかし、多少たりとも何らかの形で皆さんのお役に立てたとすれば嬉しいです。
さて、このシリーズも今回が最終回。気が向いたら続きを書くかもしれませんが、そのときは私が新たな境地に達したとき? そう信じたいです。
ジャズ・アンサンブルにおける社会性
ジャズ音楽の特徴に、即興演奏(インプロヴィゼーション)による各メンバーのソロがあります。私がジャズに魅せられた理由のひとつに、一般的には伴奏楽器とされているリズム・セクションを含むすべてのメンバーが自由に生き生きとソロで表現していることがあります。そして、ソロは自由で、個性の表現であり、ゆえにジャズは個人的な音楽だ、と私は信じてきました。
ところが、よく知られているようにマイルズ・デイビスがジャズを、social music (社会的音楽)と定義しています。これはどのように解釈したらよいのでしょうか。
社会的音楽とは
われわれの社会は、多種多様な思想、信条、信仰などの文化的背景を持った人たちで成り立っていますが、それでは話が大きくなりすぎるので、ここでは、様々な職業の人たちによって成り立っているくらいに捉えることにしましょう。例えば、店員、漁師、医師や看護師、教師、警察官、銀行員、政治家などです。そして、それらの職業人がそれぞれ集団として相当程度自立して(つまり他者や他の集団から完全に指図されることなく主体的に)、ときには職業倫理に反しながらも(?)トータルに見たら自己の職業に誇りをもって良心的に行動することでこの社会は成り立っています。
マイルス・デイビスのいう social music を私なりに捉えるのであれば、ジャズにもバンドリーダーや作編曲された音楽は存在していますが、メンバーのそれぞれが自己のパートに誇りと責任をもって主体的に行動する音楽ということになります。
ここで大切なことは、歌手は歌手の、トランペットはトランペットの、テナー・サックスはテナー・サックスの、ドラムはドラムの、というように、それぞれのポジションは自分自身しかいないということです。ビッグ・バンドのような大編成であっても、ジャズ・バンドでは、クラシックのストリング・セクションやブラスバンドのクラリネットのように、ある特定のパートを複数人数で担当することはふつうしません。例えば、トランペット・セクションが4人いたとしても、第1〜第4トランペット奏者は、それぞれ一人しかおらず、それぞれのパートは自分の技量と裁量と責任にかかっているのです。
コレクティブ・インプロヴィゼーション
加えて、ジャズの伝統のひとつにコレクティブ・インプロヴィゼーション(集団即興)があることを忘れてはなりません。
コレクティブ・インプロヴィゼーションは、例えばニュー・オーリンズ・スタイルにみられる、コルネット(トランペット)、クラリネット、トロンボーンが同時にソロを演奏しながら、誰が主で誰が従ということなくまるで糸を紡ぐように音楽をつくっていくスタイルです。このような演奏スタイルは、現代では一見廃れてしまったように思えるかもしれませんが、例えば、ホーン奏者がソロを演奏しているときの、ピアノ奏者、ベース奏者、ドラマーはそれぞれ、自立したラインを演奏しており、ソロイストとリズム・セクションは、見かけの上では主従関係と捉えることも可能ではありますが、実態としては、コレクティブ・インプロヴィゼーションとしての性格も相当強いものと考えられます。つまり、ソロイストは決められた(自分だけで決めた)ソロを展開しているのでは決してなく、他のメンバーの提案や影響を受け入れているからです。つまり、リズム・セクションはカラオケではないということです。
ジャズの持つ社会性の特徴
以上のことから、ジャズ・アンサンブルにおいて、それがビッグ・バンドであれ小編成のコンボであれ、それぞれのメンバーが自分自身の役割をそれぞれの責任のもとに演じるという点において、極めて社会的な音楽であることは明らかであるといえます。それでは、ジャズの持つ社会性はどのようなものなのでしょうか。
歴史的、地域的にさまざまな社会がありますが、ジャズはその成立の過程から、他者からの抑圧を嫌う、すなわち個人が自立しているという点があげられます。すなわち個性的な音楽という捉え方ももちろんできるわけです。
一方で、あらゆる偉業は、一個人で達成されるとは限りません。ジャズも同様で、もちろんソロによる素晴らしい演奏もあることは事実ですが全体から見ればそれらは極めて例外的であり、マイルス・デイビス・クインテットはもちろん、ジャズ・メッセンジャーズ、コルトレーン・カルテット、オスカー・ピーターソンやビル・エバンスなどのトリオ、カウント・ベイシーやデューク・エリントンのオーケストラなど、ジャズの醍醐味はアンサンブルのなかにあることもまた事実です。
よって、ジャズの社会性とは、極めて洗練された市民社会のようなものをイメージするとよいでしょう。個人の尊厳は最大限尊重されることが、社会(アンサンブル)全体の向上につながるというイメージです。そのためには、個人(バンド・メンバー)が自律的にそれぞれ個別の役割を確かな技量と知識のもとに責任をもって演じるということです。
ジャズ・アンサンブルにおけるリズム
それでは、ジャズのリズムを社会性のなかでどのように考えたらよいのでしょうか。
孤独な立ち位置
私はベーシストなので、リズムにおけるベースの「立ち位置」を手がかりに少しお話してみたいと思います。
ウォーキング・ベースラインは、一般に the top of the beat の位置で演奏されるのが望ましいとされています。私自身、トップかビハインドかといえば間違いなくトップ側で演奏すべきことは自明だとしても、トップのなかでもどの位置を選択するべきかは状況次第ということもあり、ベーシストにもある程度裁量の余地があると考えています。加えて、ほかのリズム・セクションや、ビッグ・バンドの管楽器セクションであっても役割がパーカッシブであれば原則としてトップ側で演奏するのがセオリーだと考えます。しかしそれでは話がややこしくなるので、ここでは、アンサンブルのなかでベースだけがトップ中のトップ、つまりビートの切っ先で演奏するモデルで考えることとしましょう。
そうすると、ベーシストのリズム的な立ち位置は、ほかのバンド・メンバーの誰よりも前(トップ)ということになります。ところが、この位置で自身をもって演奏することは、断崖絶壁に身を乗り出したままその姿勢を保つがごとく、たいへん難しいことに加えて正しい位置で演奏することに対して始めは大きな不安を伴うものです。
私自身、コツを掴みかけている時期というのは、一時的に、トップの位置で弾くことができたとしても、メロディやソロ(一般にビハインド寄りです)を聞いてしまうとたちまちメロディ側の位置に寄り添ってしまうということの繰り返しで、よく叱られたものでした。
これは、ソロにも同じことがいえます。ポール・チェンバースのソロを、例えば再生速度を半分にして聞けばすぐに気づくことですが、ベースといえども、ソロとなればトップではなく管楽器や歌手のメロディやソロと同様、ビハインド寄りに演奏するものです。ベース・ソロ中、ほかのリズム・セクション(ドラムやピアノ)に対して、ビハインド寄りで演奏することは特に始めの頃はたいへん難しいことで、ちょっと油断しているとついつい相対的にトップ寄りにきてしまいます。もちろん、ドラマーやピアニストの技量によっては私の位置につられて寄ってきてしまうということも起こりえます。もっとも私が不安定かつ不自然なリズムでソロをしていることが主因ではあるのですが。
このように、ベースラインを弾くベーシストはもちろん、ソロを演奏しているすべての楽器のひとは、他の誰よりもトップ、あるいはビハインド寄りで演奏するという点で、極めて孤独な立ち位置にあります。
幼稚園の学芸会ではない
曲やテンポにもよりますが、例えばミディアム・アップ・スウィングの、疾走感がありながらどこかゆったりとしたフィーリングは、リズム・セクションの疾走感(どちらかといえばトップ寄りの演奏)と、ソロイストのビハインド寄りのソロラインとのマリアージュといえます。
全体主義国家のマスゲーム、あるいは軍事パレードの一糸乱れぬ動きの美しさは、実際に見てみると清々しくあっぱれと感じるのではと想像しますが、ジャズの価値観はそれらとは異なります。
リズム的に、ソロイストやベーシストのみならず、同じビートを共有しながらも一人ひとりがそれぞれの然るべきタイミングで演奏しています。例えば、ビートの切っ先で演奏するベースラインや、ビハインドで演奏するメロディやソロラインもそうですが、例えばエリントン楽団のアンサンブルをテンポを落として再生して聴いてみると、サックスやブラス・セクションであっても、マスゲームや軍楽隊の価値観でいればアタックが全くといってよいほど揃っていません。しかし、それがジャズの社会の掟なのです。実際美しい。これは主観なのでそう感じない人もいて当然なのですが、少なくともジャズを志しているということは、それを美しいと共感しているからではないでしょうか。
ジャズ・アンサンブルは、幼稚園の学芸会のような、「お手々つないで」ではないですが、みんなが「仲良しこよし」の世界ではありません。もちろん、メンバー同士の仲が良いことは大切なのですが、相互信頼に基づく緊張感がなくては、ジャズの疾走感や重層的なリズムは決して生まれないと私は考えます。ベーシストやソロイストだけでなく、エリントン楽団のセクション・プレイヤーのように、それぞれが自分の立ち位置をしっかり守って、つまり自立して自分の音を出す、そのような意識を持つことがまずは大切ではないかと考えます。
肯定形で考えよう
たまにアマチュア・ビッグ・バンドをお手伝いする機会がありますが、間違いを恐れるせいか、リード・プレイヤーの影に隠れるように演奏する2番以下のプレイヤーが散見されます。これではかえって足手まといで、サウンドがぼやけます。
ジャズの社会では、他人と違って当然です。一瞬リードよりも目立ってしまったってよいではないでしょうか。影で隠れるように演奏するよりもバンドが生き生きするでしょう。誤って変なタイミングで音を出してしまったとしても、それを笑いに変えたらよいと思います。それでも恥ずかしいと思う気持ちが残れば、練習して向上することもできます。
私は、ジャズ・アンサンブルに関して「否定形ではなく肯定形」で考えたらよいと思います。
間違えないように。
足を引っ張らないように。
走らないように。もたらないように。
このような考え方でつい望みがちですよね。私自身もそうでした。しかし、これでは減点法の発想で、どうしても表現が消極的なものになりがちです。
効果的に表現しよう。
バンドを生き生きさせよう。
スウィング(グルーヴ)感のあるダンサブルなビートを提供しよう。
このように、肯定形で考えてはどうでしょうか。
終わりに
冒頭で書いたとおりこのリズムに関するシリーズは一旦区切りとさせていただきます。
本当は具体的にどのようにリズムを捉えたらよいか具体的に書いたら良かったのだと思います。自身の向上のため、様々なプレイヤーにインタビューや取材もして、自分なりの練習方法に落とし込んで来ました。同僚プレイヤーにお願いして練習会を何度も開いて効果も検証しました。
ただ、なかなか文章にすることは難しいと考えます。どうしても誤解も生じます。そして、場合によってはその誤解が、私の意図から外れて、読み手にとって取り返しがつかない結果をもたらすリスクもあるのではないか、と考えたからです。
ひょっとしたら慎重すぎるのかもしれません。しかしヒントは書いたつもりです。まずは、様々な音源をテンポを落として注意深く聴いてみてください。必要に応じて、採譜して自分のパートを音源に合わせて(最初は半分のテンポから徐々にテンポをあげて)演奏してみてください。他のパートにも注目してください。そうすると、今まで聞き取れなかった様々な現象が徐々にではありますが手に取るように理解できるようになるでしょう。聞き取れないうちは表現できませんが、聞き取れるようになったら、表現できる可能性があります。具体的な練習方法に落とし込みましょう。
最後にひとつだけ。
信念を持つことはとても大切なことです。それが自分の向上の原動力となるでしょう。しかし、それはあくまでも仮説として留保するという謙虚さも一方では大切です。特に、自分の考えを他人に伝えるときに、です。できるだけ、複数の根拠に立脚すること。自分の信念にとって都合よい根拠だけを見るのではなく、都合の悪い事実にも率直に目を向けること。それは、自分自身の針路を定める上でもとても大切なことだと思います。
最後までお読みください本当にありがとうございました。