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転売ヤーの本質は「利益を得る活動」ではなく「社会に対するアンチテーゼの表現」なんじゃないか

最初に断っておくが、僕は転売ヤーの当事者及び彼ら彼女らを擁護する立場ではない。むしろ批判的な立場をとっている。

近年、転売ヤーという存在が社会的な非難にさらされながらも、ごく一部の人々から共感を受ける現象が見られる。この記事では、社会科学的な視点で、この現象の理由を考察していきたいと思う。
結論をいきなり言ってしまうが、「文化的な共同体への挑戦として敵視されている彼ら彼女らは、文化的な既得権益に対する怒りの象徴として共感する人間が決して多くはないものの、日本には一定数存在する」という点に至る。

本題を考える前に、このたとえ話を読んでほしい。新自由主義が成熟しているとある停滞した先進国において、社会不適合者や常識のない議員の多い政党を支持する人々が、なぜ若者やマイノリティを中心に一定数存在するのだろうか?これは、新自由主義を追求する政党が彼らにとって「敵」である既得権益に対する怒りの象徴として捉えられるからである。あからさまな国富の切り売りや公共資産の民営化といった、正常な状態ではまず考えられないような政策を打ち出す人々を平時の状態で支持するような人間はどういった心情を国の社会に抱いているかは想像に難くないと思う。

本題に話を戻そう。
ここでいう転売ヤーは、限定品や人気商品を買い占め、高値で転売することで利益を追求する行為をさす。彼ら彼女らは本来は消費の対象となるべきオタクグッズを使わずに利益を伴って他人に譲渡するために、オタクなどの人々からは「はじめっから使う気ないような連中がオタクの消費財を買うなよ」と言わんばかりに既存の制度や既得権益に対する挑戦者として見られている。

既得権益を体現するオタク文化に対するアンチテーゼとしてのフェミやリベラルといったものに限らず、日本社会では、既得権益に対する怒りや不満がを抱く人々が一定数存在する。具体的には経済格差の拡大や固定概念による社会の閉塞感などが、この怒りの背景として挙げられるだろう。そのため、そのような怒りを抱く人々は、転売ヤーを既得権益に挑戦する象徴として共感するのだろう。

僕は発達障害者予備軍のいっかいの変わり者であるとはいえ、オタクと正反対を向いているフェミやリベラルとか、転売ヤーのような、ああいった手法で社会に対する怒りを発散させる人間のマインドを理解できない人間である。大体、車やバイクを愛する気のない人間が高値で売却するために古い車やバイクを買っては売ってといった行為を繰り返すような人間の行動って本質的に考えてみたらダメな行動だろう。家についても同じで、人様が住むために家は存在するのであって、他人に売り払って何かを得るための道具ではないだろう。
しかし、転売ヤーを支持する人々は、全体の中では少数派であるが、彼らの存在は無視できない。彼らはAI絵師と同様に、既存の制度や価値観に対する異議申し立てする階層として一定の支持を得ている。

社会的非難を浴びながらも一部の人々から共感を受ける転売ヤーについて、社会科学的な視点から考察してみた。既得権益への怒りの象徴としての共感が存在する一方で、彼らの支持者は少数派であることも指摘される。この現象は、日本社会における文化的な共同体への挑戦や既得権益への怒りという広範な社会的背景によって生まれていると言えるだろう。

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