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■ゲシュタルト平面からの創造論と神学的に芸術は
■ゲシュタルト平面からの創造論と神学的に芸術は
・部分の総和は、ゲシュタルトではない。部分の総和になんらかが加わったものが、ゲシュタルトである。その平面からの創造以外のものは、歴史の瓦礫でもある
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・いずれにせよ、根こぎ、という言葉がある
・根をそれごともぎ取られること
・オルターモダンでは、ラディカントでは、ブリオーは、モダンとポストモダンが、いずれも、その本質に、その根、を持つことを指摘し、そこからの脱出を促す(モダンでは、"新しい"、を求めて、根拠に巻き戻り、純化が行われ、ポストモダンでは、グローバリズム的なものとしての多様性によって、土地的出自に呪縛される)
・オルターモダン的なもの、または、オルターモダンにおけるキーワードは、エクソダス(出エジプト記的民族的脱出)であろう
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・さて、エクソダスは、モーゼがそうであったように、彼が、彼のみで、または、彼の周囲の人々たちのみで、成し遂げられたかと言うとそうではない(モーゼ一人では、失敗したことは言うまでもないし、モーゼが呼びかけた人々は、逆にモーゼを村八分にさえした)
・少なくとも、主体は、エヒィエ・アシェル・エヒィエ、なる、神秘または匿名的な神であった(超自然的なもの、によるはたらきかけ、呼びかけがなければ、エクソダスは、人為的かつ企画的な、しかも失敗するところの動乱に他ならなかっただろう)
・動乱ではなく、動態的なもの、こそ、エヒィエ・アシェル・エヒィエ的なものなのである
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・このことは、作品が、その部位や部位の総合、を超えた、まさに、ゲシュタルトというところから創造され、観賞されなければ、オルターモダン的にはならない、ということさえ言える
・ある種のゲシュタルト的な綜合力は、確かに、ヌミノーゼでありながら、よりさらに、聖なるものを超えた、神聖なるもの、のことなのである
・人間や宇宙が、べつに人間や宇宙を最上位者として、コミユケーション、という概念を創出してきたわけではない、ということを想起すべきでもある
・より、超自然的なもの、まさに、神というところのものとの、対話ないし、影響の残渣を、語るにおいて、表現するにおいて、コミユケーションという概念は、より発展したようにさえ思う
・つまり、人間や宇宙は、人間や宇宙によって、根こぎされてはならない(戦争や破壊)、が、超自然的なものや神なるもの、によって根こぎされることで、はじめて、進化的であり、本来的であり、なんらかの意志が、貫徹されていくのである
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