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【NOVEL】アートマン 第1話

【あらすじ】
自分の研究が頭打ちになってしまい、悩み苦しんでいたとある大学院生が交通事故に遭い、命を落としてしまう。絶命した彼の精神性は、既に分裂しており、彼の中にある様々な感性がそれぞれの立場で現状を主張し合う。
談義は平行線を辿るかと思われたが、話し合いは意外な方向へと進み…

今からちょうど五年前、私は後輩たちに背中を押され研究室を出た。ざんばら髪の私は、頭をかきながら照れて見せて、一言「頑張ります」だけだった。今思うと…というより、あの頃言っておけばよかったなと思うことは、私の人生で多々ある。加えて、義理堅い性格からか、些細なこともついつい重く受け止めていたであろう。

これまでの自堕落な学生生活が借金となっている。当時、後輩からもらった寄せ書きをいまだに持っている。本当のところ、彼らは私のことをどう思っているのか知らないが、それでも今こうして大切に持っているのだから、私は私の支えになっている。研究者の卵と言えど、生活の水準をここまで落とした末、落ち着いた場所が畳一畳ほどの個室なので、社会不適合者の烙印を押されたと言える。

この環境下は、成功者によくある苦労話の道程だと私は信じて疑わなかった。「あの頃の冷凍庫は食パンばっかりでしてね。それでカロリーを摂ってましたよ。通帳なんてマイナスになることもしばしばでして…それでも、当時の苦労があったから、今こうしていられる気がします」

日の目を見る小話は誰しもある。これまで、何不自由なく親に生かされていた私にとって現在の不遇は、人生にあって然るべきものだと思っていました。

今になって思うことは、自分を大切にするという観点をはき違えると、社会復帰が難しくなるということです。少年だった時分、周囲を顧みず何かに取り組むと、その姿勢に人は突き動かされていたようにも思えるのです。今、先行してしまう気持ちというのは、現状維持でして…つまりは、変化を求めると体力が必要となりますので、どうしても面倒臭い気持ちが勝ってしまいます。

しかし、私の甘かった点は、世間は常に進んでおりますから、現状を保つという行為は相対的には後退を意味するということ。更に言えば、背後からの新しい風に対して、焦りを覚えなくてはなりません。

 書けなくなりました。

唯一、生業となり得る行為が出来なくなりました。当初は、泉が湧くように次から次へと新たな着想が浮かんで、それを早く文章にまとめなくてはと忙しい程でしたから、今思うとうれしい悲鳴でした。

それがここ数日、頭を逆さにして振ってみても何も出て来ません。

加えて、大学という学術研究機関に足を運ぶのが億劫で仕方がありません。いや、億劫という言葉を持ち出すと、朝起きて物を食べたり、歯を磨いたりと、それすら面倒になってきて、身を持ち崩すことが常になっていました。道端の石ころのような者ですから、傍から見ると身なりもひどいものでした。ましてや、雑踏…目まぐるしいネオンに彩られ体調を崩していたこともあるでしょう。

私は、書けない近況により知ったのです。努力や才能の問題ではなく、諦観からやってくる甘ったれた嫌気です。

六月某日、世間が梅雨冷する暮方、私は一人、家路を急いでいた人間ということにしておきます。交差点にも拘わらず、信号無視をしてしまった私は、丁度、携帯電話の画面に夢中だった、ということにしておきましょう。

結果、断末魔が迫ることに起因する。私は自らが運の悪い人間だと思える隙も無かった。大きな衝撃と轟音と共に、意外にも状況はすぐに把握出来ました。けれど、眼前には大きく屈折した自分の脚があったわけだし、私はそのつま先に視線を落とした。地に広がっていく赤に、一瞬だが、わずかな生気を感じられた。そんなぬくもりの中、五感はずぶずぶと鈍くなっていく。身内への申し訳なさを引き換えに、人生から解き放たれた喜びは、果たして罪なのでしょうか。だとすれば、被害者と加害者は一体誰になりますか。

詰まる所、人生とは、私にとって手に負えないものだったのです。

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ここまで読んでいただきありがとうございました。第2話へ続きます。近日、投稿するのでよろしくお願いします。

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