「会って、話すこと。」が贅沢な今だからこそ、「会って、話すこと」を問い直す
「会って、話すこと。」(田中泰延・著)を読んだ。
なんなら2回読んだ。
前著「読みたいことを、書けばいい。」も何回でも読みたい本だが、本著はさらに何回でも読みたい本である。
会話術の本である。
いや、そう見せかけて、違う。
会話“術”という表面的なハウツーとは全く違う。
本著を通して、ユーモアとジョークを端折って伝わって来るのは、相手とどう向き合うかということだ。
会話である以前の、「会う」ということの意味。
オンラインではない、「リアルな」会話のもつ本来の意義。
読んだ後心に残ったのは、もうひたすら反省である。
会って話すなら、何かを届けて、何かを受け取らねばならない。
そうじゃないと相手にも失礼にあたる。
そんな勘違いで、今まで人と会っていたように思う。
明確な目標や要件があって人と会うこともあるけれど、それは会話ではなくて、商談や会議に近い。
私は、やりたいことがあるばっかりに、やりたいことの内容を伝え、やりたいことに寄与する何かを求めて多くの人に会ってきた。
その割にはやりたいことに向けた具体的な何かを持ち合わせていない。
いわば、商品のない商談、議題の定まらない会議をしていたのだった。
本著を通して、「会って、話すこと。」の本質を掴みかけている。
ギブ&テイクでもウィンウィンでもゼロサムゲームでもない。ましてや勝ち負けなどではない本当の会話。
そこに最も必要なのは、目の前にいる相手への最大限の敬意である。
今まで会ってくれた人に対して、私は本当に敬意を払い、それを伝えることができていただろうか。
やりたいことを聞いてほしい、わかってほしい、あわよくば力を貸してほしい一心で、相手が見えていなかったのではないか。
会話にオチ(目に見える成果)を求めすぎていたのではないか。
やりたいことについては、誰かに話してわかってもらう前に、できることをしっかりやることから始める。
実際に始まるのはまだ先だけど、始めるときには、自分のすべきことを愚直に進めていくことから進めよう。
あとは距離感だ。
本著を読む前から薄々気付いていたが、私は距離感がうまく取れない。
踏み込むか切るかしかできない。
下手くそにもほどがある。
おかげでたくさんの貴重な出会いを、たくさんダメにしてきている。
全て、私の狂った距離感のせいだ。
知ってもらおうとしない。
知ろうとしない。
「会う」ことそのものを大切にできる自分になって、それをわかってくれる相手を大切にして、この苦しい状況が落ち着いたら、また少しずつ誰かと会って、話したい。
いい距離感を探りながら。
語るだけの哲学を磨いて。
自分の機嫌を自分でしっかり整えながら。
時に話を逸らす勇気と知識を備えながら。
人と会うことがこれほど贅沢なものになるとは、全く予想だにしなかった。
どうせ贅沢ならば、田中泰延さんと今野良介さんにお会いしたい。
サインにそう書いてあるし。
なんなら、居酒屋でお二人がお話しして盛り上がってるのを隣で聞くだけでもいい。
お二人の会話はこの本の実践の見本になっている気がしてならない。
あと、浅生鴨さんが話しを逸らすのも体感したい。
岸本高由さんのボケを味わいたい。
そんなことを夢想しながら、私は私の会話を磨く。
次に誰かと会って、話すとき、私も相手も幸せになれますように。
本著の本質を心にとどめておけば、必ず幸せな時間が訪れるに違いない。
知らんけど。