嘘こそがボクたちを救う
岸田奈美著・「飽きっぽいから、愛っぽい」を読みました。
小説現代での連載とあって、noteのマガジンに綴られるのとは違うテイストに見えるのは気のせいなのでしょうか?
とはいえ、安定の岸田奈美ワールドに笑いと癒しと救いを得るのでした。
しかし、本著におけるこれまでの著作との違いは、ブクログのレビューにも書いたとおり、最終章にあると思います。
noteのマガジンと違い、最終回がある連載ゆえの、最終章。
(以下、若干のネタバレになりますので、あしからず)
岸田奈美さんは、自分のエッセイに嘘があると書いています。
それは吐露と言っていい心の声にも聞こえます。
エッセイに嘘があると言ったら、エッセイの価値や意味が損なわれることだって考えられるのに、きっと書かずにいられなかったのは、その嘘こそが岸田奈美さんの救いだったからなのでしょう。
過去の真実を真実として受け入れるために必要な、一欠片の嘘。
真実を作り上げるために必要なピースとしての嘘。
それは「事実ではない」「事実に基づかず創作した」という意味では“嘘”なのでしょうが、それがあって初めて過去の真実が完成するのであれば、責められるものなどではないでしょう。
そしてそのことは、大変烏滸がましいのですが、私にとっての救いでもあります。
細々とnoteに徒然している私もまた、文中に“嘘”が混じることがあります。
岸田奈美さんのこの最終章の吐露は、そんな私の“嘘”をも認めてくれているようにも感じます。
私も私が嫌いです。
書いても書いても嫌いです。
過去に名を付けてもなお、今の自分が過去よりマシと慰めるとか、今の自分を受け容れるとかがしきれない。
でもなお、いやだからこそ、過去の真実をちょっとの“嘘”で補いながら、振り返って、受け容れて、今の自分を少しでも好きに、せめて許せるようにしてあげたい。
全てのエッセイが珠玉の文章なのですが、最終章の正直な吐露をもってますます輝きを増すと感じました。
素敵な一冊をありがとうございました。
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