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『天気の子』の解釈: 異常気象の責任を放棄した大人たち/引き受けた少女たち

今さらですみません (^_^;)

今回の記事は、新海誠監督のアニメ映画、『天気の子』についてです。2019年7月に公開された作品なので、もう5年経っており、かなり今さらです。私自身は、2年ほど前にNetflixで本作品を視聴しました。同監督による新作、『すずめの戸締まり』が公開された頃、その宣伝のため、彼の主な作品が視聴できるようになっていたからです。

もともとインディーズっぽい作風の人でしたが、『君の名は』で一般向けの作品を作って大ヒットし、一躍メジャーな存在となりました。昔からのコアなファンからは、彼の持ち味が薄れて残念がる声も聞かれました。そういう反省(?)もあってか、次に製作された本作品は、興行的な成功は二の次とし、彼のもともとの作風を前面に出した、尖った作品となっています。特にラストの展開は衝撃的で、世の中では賛否両論渦巻きました。監督自身が、「許せないと感じる人もいるだろう」と言いつつ、「あえてそれをやりたかった」と吐露しています。

正直に言えば、私は本作品の結末に共感できませんでした。しかし、その立ち位置を理解したいとも思いました。そこで、作者がどうしてこのような作品を作ったのか、何を訴えたかったのかについて、思考を巡らせ、自分なりの結論を得て、他の場所で文章を書きました。本記事は、そのときに書いたものを修正の上、転載するものです。タイミング的に今さらなのはそのためです。書くにあたり、ネット上で読むことのできた他の方々の考察も参考にしましたが、私と同じ意見は見つかっていません。本作品に関心のある方に参考にしていただければと思います。

おすすめの解説記事

まず、「天気の子」を深く理解したい人は、以下のnoteを読むことをおすすめします。

天気の子について、多くの人が解説を書いていますが、この記事は群を抜いて質の高いものとなっています。2つの記事があり、順序としては、まずはこちら、

次に、こちらを読むのがよいでしょう。

この記事を読めば、この作品がいかに緻密に練り上げられたものであるかがわかります。結末に共感できないというだけで、切って捨ててよい作品ではないのです。

私の解釈は、基本的にこの記事をベースにしています。

本作品のあらすじ

まず、本作品のあらすじを眺めましょう。

舞台は異常気象で雨ばかり続く日本。家出少年である帆高(ほだか)は、東京にやって来て、陽菜(ひな)という少女に出会います。彼女は、天に祈りを捧げることで天気を一時的に晴れにする超自然的な力を持っていました。帆高は、母を亡くして生活に困っていた陽菜とともに、晴れを届ける天気ビジネスを始めますが、彼女はその力を使うことにより、身体が消えて行く運命にある「天気の巫女」であり、その犠牲とともに狂った天気が元に戻ることが明らかとなります。帆高は、陽菜に縁の神社の力で、消えてしまった陽菜に雲の上で会うことに成功します。「青空よりも俺は陽菜がいい」「天気なんて狂ったままでいいんだ」と叫んだ帆高を陽菜も受け入れ、二人は地上に戻りますが、それとともに、街は再び豪雨に見舞われます。家出中だった帆高は警察に捕まり、家に連れ戻されますが、3年後、大学進学を機に再び上京します。その間止むことがなかった雨により、広範囲が水没している東京を見た帆高の心は晴れません。しかし、力を失ってもなお天に祈りを捧げ続けている陽菜の姿を見て涙し、「僕たちはきっと大丈夫だ」と力強く陽菜に伝えるのでした。

多くの人がこう思うはずです。何が大丈夫なのか?

主人公たちの選択は、見方によってはほとんど狂気です。死んだ妻に再び会うためだけに人類の歴史を終焉させようとする碇ゲンドウの姿が脳裏をよぎるくらいです。そんな戦慄の景色の中、なんの見通しも語られないまま、RADWINPSの感動的な音楽とともに物語は終了するのです。

Yahoo!知恵袋の質問

例によって、Yahoo!知恵袋に寄せられた質問を見てみましょう(著作権の関係で一部抜き取りです)。

「天気の子ってめちゃめちゃバッドエンドじゃないですか?あの感じだと10年もしないうちに水没してみんな死ぬのでは?」
「陽菜が死んで災難が無事解決すれば良かったとは言いませんがラストの展開があまりに解決なさすぎです。東京が水没するよりも自分が好きになった子の方が大切ってことですか?」
「女の子を生贄にしなきゃ東京が水没してしまう。 でも女の子を生贄にはしたくないという葛藤が面白くて、どういう風に解決するのかなと思っていたのに、結局最後東京水没して終わりましたよね。なにも解決してないじゃん...とガッカリしてしまいました」

みんな考えることは同じですね。

絶対的な愛?

本作品の最もわかりやすいレベルの主題は「絶対的な愛」です。一般的にはこのような文脈で受容されているように思いますし、新海誠がその作品を通して一貫して描き続けてきたテーマでもあります。世界全てを敵に回しても貫きたい愛。そのためなら「天気なんて、狂ったままでいい」。世界を変えた責任を背負っている彼女を支えたい。お互いの存在を支えに生きていける。そんな主人公の差し迫った想いと決意を、この「大丈夫」に読み取る、というのが一つの受け取り方です。しかし、「最後に愛は勝つ」的な話はわりと好きな私でも、水没している東京を前にしては、主人公たちの行動は狂気と紙一重であり、碇ゲンドウであり、ついていけないと思いました。

システムに対する叛逆

本作品のもう一つ重要な主題に、社会・秩序と、そこからはみ出した存在、という対立構造があります。社会哲学的なテーマです。このことは、主人公の帆高が、 J.D.サリンジャーの名作『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を愛読していることに象徴的に表れています(この作品の主人公は、大人たちの欺瞞に我慢できず、家出をして放浪するなど、帆高と多くの共通点を持っています)。社会システムは、それに適応しない存在を排除し、その犠牲のもとで秩序をつくります。陽菜のような「天気の子」が人知れず犠牲になることで、異常な天気は元に戻る。帆高の行動は、こうした犠牲の上に成り立っているシステムにノーを突きつける、という意味を持っています。

帆高が陽菜を地上に連れ戻したとき、陽菜の首についていたチョーカーが壊れます。また、新海誠自身の小説版の記述によると、再び始まった豪雨により、山手線の一部が水没し、円環状からC型の路線に姿を変えます。これらは、円環構造が壊れたことを暗示しています。円環構造は、社会の秩序を成り立たせるサイクルの比喩となっています。

このような視点により、帆高たちの行動は、より理解し得るものになります。

しかし、それを理解できたとしても、問題は残ります。いったい何が「大丈夫」なのでしょうか?

社会は意外と回る?

それを考えるためのヒントは物語の最終盤にあります。帆高が再び東京に来て、かつて天気ビジネスの顧客であった高齢の女性を訪れた際、彼女は、江戸はかつて入り江であり、昔に戻っただけだ、と言います。また、帆高のかつてのバイト上司である須賀は、「気にすんなよ。世界なんて、どうせもともと狂ってんだから」と突き放します。こうしたことは、地球温暖化が進んだ気候について、実際に言われることもある論理です。真実をついている部分もありますし、このようにして納得するのは一つの解ではあるでしょう。通行人が「お花見楽しみだね」と話をするなど、異常気象のもとでも普通に生きている姿も描かれます。

本作品の解釈として、異常気象のもとでも社会は意外とちゃんと回っている、だから、彼らは(僕たちは)自由に生きていいんだ、それでも社会は簡単には壊れない、というメッセージを読み取る立場をあちこちで見かけます。しかし、私はこの立場をとりません。このようなメッセージは、上に挙げた大人たちの考えに対応しますが、本作品のラストの展開は、こうした立場をきっぱりと否定しているからです。

何が「大丈夫」なのか?

帆高は、大人たちの考えに思いを巡らすものの、心は晴れません。そんな中、3年ぶりに陽菜の姿を見た帆高は衝撃で呆然とします。彼女は、空に向かって祈りを捧げていたのです。彼は、事前に陽菜と連絡を取っていません。陽菜のこの姿は、彼女が毎日のようにここで空が晴れるように祈っていることを意味しています。そんな陽菜の姿を見て、帆高は涙します。世界を変えた責任を背負ってしまっていることへの悲痛さからでしょうか?それだけではないと思われます。世界なんてどうなってもいいと思っているのではない。世界はもともと狂っていたのだからと責任を放棄するのでもない。世界を変えた責任を引き受けてなお、それとともに二人で生きていくことを選んだ、そんな陽菜の姿に涙している。そう考えないかぎり、このラストシーンはうまく理解できません。

これは、前述の大人たちの態度とは対照的です。もともと、異常気象は、人類全体の活動がもたらしたものです。しかし本作品では、もとの原因をつくった大人たちは、気候の変化を誰の責任でもない自然なものとして受け入れています。一方、まだ子どもであり、責任があるどころか犠牲者と言える陽菜が、自分の責任としてこの現実を引き受けようとしています。帆高もまた、そんな彼女の姿を見て、責任を引き受けて生きる決意をします。陽菜や帆高の方が、現実の大人たちよりもずっと「大人」な考えを持っている——。この物語の最終盤は、このように描かれています。ここが、本作品の解釈にとって重要なポイントです。

この点が、彼らと碇ゲンドウとの違いです。そして、これを踏まえると、帆高がなぜ「僕たちはきっと大丈夫だ」と言ったのかが理解できるように思われます。彼らの行動が「正しい」かどうかは議論があるでしょう。しかし、彼らは、自分たちのやまれぬ思いと客観的な現実の両方に真摯に向き合い、過酷な運命を引き受けつつも、お互いの存在を支えに前向きに生きていこうとしています。そんな尊い彼らが「大丈夫」でないはずがありません。むしろ、「大丈夫」でないのは、現実の大人たちではないでしょうか。

本作品は気候変動への警笛でありそうでなさそうである

本作品は、異常気象が続く日本を舞台としていることから、一見、気候変動への警笛のメッセージを持っているように見えます。しかし、実際に作品を鑑賞すると、異常気象を正すことよりも個人の幸せの方が大事なのだと強く訴えかけている、衝撃的かつ叛逆的な作品であることがわかります。賛否両論渦巻くのも当然です。とは言え、上で見たように、帆高と陽菜が、大人たちが放棄した異常気象の責任を自ら引き受けて生きる覚悟をしていることを鑑みれば、この作品は、やはり気候変動への警笛的なメッセージをちゃんと持っていると言えるのです。

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