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自由に表現することの罪悪感と、その裏側にみえる、希望のかけら。

健やかなものづくりをしたい人のための相談室
おのうえなおこです。
今日は私が得た気づきについて書かせてもらっています。
同じように感じている方へ届いたらいいな!



自分が自由である、ということについて。

私は自分が自由である、ということに執着しているところがあります。
自由にイメージして、表現して、好きなタイミングで好きなことをする。
ひとりで頭の中の世界に浸る時間。
そのことを阻害してくる存在にものすごくストレスを感じます。

だけど、どちらかというと自由を阻害する世界に自分から飛び込んでいるところがある、ということに気づきました。
好きなことを仕事にして、好きな味のクッキーとデザインで表現して、スタッフが現実化してくれる、という恵まれた環境に身を置いていても、なお。

自分が自由に表現していることそのものが、罪深い行為だということがどうしても拭えずにいるんです。
これは周囲の環境とか人間関係とか関係がなく、
どの環境に身を置いていても常に感じている感覚です。

母と、祖母の姿。

ひとつだけ思い当たることがあって。
それは私の母と祖母の姿。

私の母は、常に誰かのお世話をしているような人です。
高校生の時に祖父が倒れてからというもの、私が幼いころまで自宅で介護をしていました。
結婚しても同居が前提だったようで、私もその家でずっと暮らしていました。
遠い記憶の中で、声を発することのできない寝たきりの祖父の姿をじっと見つめていたことが残っています。
その後も専業主婦で兄と私をを育ててくれて、地域の活動にも積極的に参加。犬、猫、文鳥を飼い、今は猫のミーちゃんを育てています。

そして、私の父方の祖母は9人兄弟の長女で、兄弟のお世話のために小学生までしか行かせてもらえなかったそうです。(昔の農家ではよくある話だったようだけど…)
わたしの父は5人兄弟で、父以外の兄弟は全員若くして亡くなっていて、祖母は自分の子供4人、また夫である祖父を看取っています。父の弟ふたりは難病で自宅で過ごしていたので祖母が長いこと一緒に過ごしていました。

でも、ふたりから悲壮感はありませんでした。
私は祖母の経験した、「子供を亡くすこと」がどれだけ辛いことだったのかを
自分が子供を産む時まで分からなかったほど。
そのくらい、祖母や母から悲しみのエネルギーを感じることが出来なかったんです。

私はやりたいことはやらせてもらえていたと思います。
絵はたくさん描いたし、美術大学にも進ませてもらった。
そんな私の姿を見て、
「あなたはずるい」というエネルギーを感じたこともありません。
私がやること、作るもの、いつも応援してくれていたと思います。

だけど私は日に日に、
自由であることへ
罪悪感を感じるようになりました。

母のように、誰かのために人生を使えない。
祖母のように家族に全てを注げない。
私はきっと間違えているんだ。
きっと罪を犯してるんだ。

罪悪感は、いつでも私の腕を引っ張ります。
「そっちの世界に行ったら、家族はどう思うかなあ?」
って。

もし、自分が家族の「希望」だったら。

心の師匠、根本裕幸先生のこの記事を読んでいたら、こんなことが書いてありました。

そして、ここからがさらに重要なのですが、「母親が娘に託した夢を実現する」という目で自分の人生を振り返っていただきたいし、これからの人生を見ていただきたいのです。

Yさんが県外の大学に進学したり、旅行や高いものにお金を使ったり、やりたいことをやってきたり、好きなように生きて、お金のことを「何とかなる」と思えるって、もしかしたら、その生き方ってお母さんにとっての「希望」なのかもしれないんです。

自分が生きたいけど生きられなかった生き方を娘に託す。

見ようによっては重たい荷物のように感じてしまいますが、それは罪悪感があるから。
純粋にそれを愛として受け取れたら、自分がどんどん自由に生きることこそが親孝行であり、それで夫婦ラブラブで幸せに暮らしている姿がお母さんへの最高のプレゼントとなるのです。

もちろん、お母さんが不幸だということを言いたいわけではなく、たぶん、お母さんはその生き方が自分に合っていて、それなりに幸せを感じながら今に至ってると思うのです。

今、自分が「こんなふうに育った」
のは、万が一、
母が、祖母が、望んだ姿なのかもしれない。
口ではそう言われていないかもしれない。
むしろネガティブなことを言われたかもしれない。
だけど、もっともっと深い心の奥底では、私たち家族はちがうコミュニケーションしてるのかもしれない。
それは、全て想像でしかないけれど。

お店を始める前、私が家でお菓子を作っている時、いつも祖母は私のことを眺めていました。
正直、監視されているようで私は息苦しかった。
その視線は私の中の罪悪感を刺激してくるものだったから。

その視線、もしかしたら
「いいよ、好きにやりなよ」
「おばあちゃんの分まで自由に生きて。」
って、見つめていたんだとしたら。
って、初めて感じてしまって。

罪悪感で見ないようにしていた、私の自由さを見届ける大きな愛のかけら、ちょっと見えてしまったのかもしれない。

あなたへメッセージ

きっとこの記事に辿り着いてくださった方は、
自由であること、
自由に表現すること、
自分勝手に表現すること、
好きにえがくこと、
ありのままを作品とすること
を望んでいるにもかかわらず、
罪悪感を感じている人もいらっしゃるのではないでしょうか。

わたしのように、
罪悪感に腕を引っ張られてもなお、
どんなに痛みを伴っても、
その道を選んだあなた。

その罪悪感の裏側に見え隠れする
自分へ向けられた「希望」のかけらを
この記事で一緒に感じられたらいいな、と思って書きました。

お話聞かせてください


同じようなことを感じられてもし悩まれている方がいらっしゃいましたら、
1月にカウンセリングモニター募集をまたお知らせしますので
ぜひお聞かせくださいね。
(12月は満席です)

読んでいただき、ありがとうございました!

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おのうえなおこ/経営×クリエイター×カウンセラー
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