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久々のNote! 今度心理学ワールド99号に載る予定の原稿。タイトル「意識・クオリアを科学するには?」

ノートに書くの久しぶり! グラント書きに追われ(3月、5月、7月と、でかいのが続いている。。。)、なかなか時間が取れず。

表紙はサーターアンダギー。今日の昼から沖縄へ行きます!2年ぶりの日本一時帰国。2019年の11月に北海道(CHAIN opening)と奈良(Quantum Cognition)に行ったのが最後かな。

以下は、2022年10月発行予定の心理学ワールドの「こころの測り方」というコーナーに載せる予定の原稿です。


・心理学ワールドについてと、
・西田幾多郎の現象学と純粋経験について、
は最近ツイートしたものをはりつけたものです。https://twitter.com/NaoTsuchiya/status/1535796767744110592

心理学ワールドについて

日本心理学会発行の機関誌、心理学ワールド(新曜社)から、「こころの測り方」というコーナーで、わかりやすい解説記事を書いてくれないか、という依頼があったので、受けることにしました。

他の執筆者の方が書いてきた、心理測定に関するテーマは、オンラインでタダで読めます。https://psych.or.jp/?area%5B%5D=searchdataword&typeMin=0&typeMax=96&yearMin=1998&yearMax=2022&s=%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AE%E6%B8%AC%E3%82%8A%E6%96%B9&pagetype=publication&detail=1… わかりやすく、話し口調で解説されている記事が多いので、特に心理学をちゃんと勉強してこなかった(!)私のような脳科学者には、面白く読めると思う。

内容には、心理で使う統計入門、registered report, 最新の解析手法、オンライン実験、経験サンプリングなど、参考になる記事が多い。

近年我々が提案している、意識を研究するための手段としての、無報告課題とか大規模報告課題は、オンライン実験や経験サンプリングとも関係がある。

意識を研究するためには、被験者から主観報告を得なければならない、というのは、一部の研究者の間ではドグマみたいになっているところがある。そして、哲学・心理学・認知科学の歴史の中では、ゴリゴリの行動主義の考え方にも通じている。

だが、私たちが日常生活するときに、自分が感じていること、思っていることを報告することなんてそうそうないのではないか? だとしたら、「報告」そのものを考え直すことは心理学や意識研究の文脈で重要な問題になるでは? 報告より前の「判断・言語化」すら、意識に必要なのか、怪しい。

西田幾多郎の現象学と純粋経験

このあたり、藤田正勝「現代思想としての西田幾多郎」https://amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A5%BF%E7%94%B0%E5%B9%BE%E5%A4%9A%E9%83%8E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E8%97%A4%E7%94%B0-%E6%AD%A3%E5%8B%9D/dp/4062581388… にすごくわかりやすい解説がある。(私ですら西田が理解できた気がする!)。これは、西田をはじめとした哲学者が疑ってきたことでもある。

ただ、この報告・判断の問題を哲学から科学に載せようという試みはあまりされてすらしていないのではないか? 脳イメージングを絡め無報告課題はその第一歩。

大規模報告課題を使えば、どんな状況のどんな刺激に関して、どれだけ被験者の間で共通した経験があるかが見積もれる。その結果を使えば、どういう状況では、無報告課題課題中の意識経験が予測できる精度があがるだろう。 みたいなことを書こうと思う。 

という長い前置きはここで終わり。

意識・クオリアを科学するには?

死ぬときにはどんな気持がするのか? 自分にはいつから意識があるのか? 他人と自分は同じように世界を見て、空を同じく青いと感じているのか? 動物やロボットが何かを感じることがあるのか?

心理学研究を目指している読者には、こういう主観性の問題をきっかけとしてこの道にすすんだ方もいるでしょう。私はまさにそうで、入口として脳科学を選びました。歴史的には、脳科学や心理学では、主観・意識・クオリア(=意識の中身、「青の青さ」)は直接に「測定」ができなにので研究できないとされてきました。直接に厳密測定できる「行動」のみを実験し解析すべき、とするのが行動主義的心理学。主観性を研究の対象外とする行動主義は、哲学・臨床研究・認知脳科学に今でも影響を与えています。

近年の脳イメージングが発展し、私たち自身が被験者となり、私しか知りえない主観的意識に対応した脳活動を計測できるようになり、極端な行動主義の考えを取る人は減っています。意識やクオリアは、脳イメージングと心理学手法を組み合わせれば、その仕組みがわかるようになるのでしょうか?この話題に興味がある読者の方には、私の著作『クオリアはどこから来るのか?』などで深堀りしてみてください。

本エッセーでは、新しい意識研究手法として注目されている「無報告課題」と「大規模類似度課題」を紹介します。クオリアとその測定の関係性、つまり、判断や報告などの行動と主観性には、どういう関係があるのでしょうか?

意識は測定できないとは、脳活動測定ができなかった時代に、被験者が何を考え感じているかは「原理的に」分からない、という考えから生じました。心理学で外から制御できるのは、外界の刺激。計測できるのは被験者の行動。刺激を入力として行動を予測できさえすれば、意識なんてわからなくて良い、という考えです。

話は逸れますが、私は子供の頃、ドラクエが大好きでした。ある日、当時売り切れで手に入らなかったドラクエ「攻略本」が届き、私は興奮して読み始めました。ところが! これが超ガッカリ! 私が好きだったのは「ドラクエ経験」であって、経験とは関係のない入出力の部分(アイテムに関する情報など)は、役にたったけど、私の興味ではなかったのです。

同じように(強引!)、私たちの元々の興味は「生きられた経験・クオリア」だったのに、いつの間にか、経験を持つ被験者の行動・脳活動の解析、にすり替わっていると思うことがあります。攻略本的なガッカリ感はどうしようも無いのでしょうか?

この問題と関係するのが、日本の哲学者・西田幾多郎や現代心理学の父・ジェームスらが論じた「純粋経験」という考えです。(藤田正勝の「現代思想としての西田幾多郎」は、私でもスイスイ理解できた(と思う)おすすめ本。)

純粋経験は、判断や言語化の前にある経験そのもののことです。「私がりんごを赤いと思う」ではなく「赤いリンゴ」むしろ「赤」だけです。私という主体がりんごという対象を赤いと思うという経験を持つ、という枠組みを一度捨ててみようという話です。赤ちゃんや動物は「赤」と言語化しないでしょうから、彼らの意識は純粋経験でしょう。

純粋経験は、主観そのものを研究したいと考えている人には面白い概念です。が、判断する前の経験など、研究対象になるのでしょうか? 言語化されない内容は、脳内の微弱な神経活動に対応し、意識にはのぼらないのかもしれない。たしかに、短時間の刺激提示状況では、意識的にアクセスできない脳活動が生じることが観察されます。言語化されないなら、なにも意識されないという考えは西洋に根強くあります(ヘーゲルやフンボルト[藤田])。

しかし、無意識に対応する脳活動と、注意を向けず報告もしないが意識にのぼっている脳活動は、質的に相当違うことが近年分かってきています(Tsuchiya 2015 TICS)。眼球運動などを計測すれば、無報告でも主観経験を高い精度で予測できる状況も知られています。「無報告課題」により、純粋経験の神経基盤に近づける可能性があります。

無報告課題では直接に被験者から報告を得ないので、どうしても不安が残ります。意識研究の文脈では、注意を向けていないときには、目の前に見せられた目立つ物体すら見えない、という状況もあります。そんな状況を知っていれば、無報告課題には抵抗があるかもしれません。

このジレンマを解決するために、無報告課題と組み合わせて使うと有望なのが「大規模報告課題」です(Qianchen 2022, Chuyin 2022)。 オンラインで実験を組めば、実験室では難しい、大量の知覚刺激に対して、大多数の被験者からデータを得ることが容易になります(Hebart 2020, Cowen & Keltner 2017)。これを活かし、予測ができない刺激を一瞬だけ見せられたとき、言語(Chuyin)や視覚プローブ(Qianchen)を使って、視覚経験の中身を各被験者が部分的に報告する。それらを総合したものを被験者集団が共通に経験しうるものとみなすことができます。

たとえば、我々は大規模報告課題を使い、一瞬見せられた自然画像の中に、画像のテーマにそぐうもの・そぐわないものがどれだけ意識にのぼるか、を計測しました。部屋の外や中、乗り物や人、といった大雑把なカテゴリーしか報告できないものでしょうか? 我々の実験では、細かいレベルの具体物、例えばエッフェル塔などですら、133ミリ秒という提示時間(マスク有り)でも、ほとんどの人が報告できました。ならば、無報告条件下で同じ写真を見せても、大体の被験者ではエッフェル塔が見えているはずだ、という予想が立ちます。一方、画像内の物体を入れ替えをした場合、掃除のモップをカヌーのパドルに入れ替えたりしても、その物じたいが画像に対して小さい場合、多くの被験者が気づきません。今後、どのように注意をそらせば、明らかな違いに人が気づかないのか、ということも大規模報告課題で明らかにできるでしょう。そういう状況では、報告が無いなら被験者が何を見ているかはわからないということになります。

そのような確率的に意識・クオリアが生じる状況は、これまでの心理学・脳科学では、意識のメカニズムに迫るための最も重要な課題だとされてきました。外部刺激を一定にしていても、見える人と見えない人がいる。その差に関係するのが、意識のメカニズムに重要なはずだ、という論理です。しかし、日常で私たちが経験する意識というのは、確率的なものだらけではないでしょう。フェヒナーに始まる心理物理学では、基本となる「ものさし」として丁度可知差異が使われてきました。しかし、StevensやShepardが発展させた、主観感覚の直接の報告や、類似度報告は、よりグローバルで自然なクオリアの大局的な構造を捉えることができます。ある明度・彩度における色のパッチを集めて、それらの距離が主観的な類似度になるようにするように配置しようとすると、環状の色構造が明らかになります。こういうクオリアの構造を支える脳活動を明らかする、というのが、我々が提案している「クオリア構造」プロジェクトの一部です。

クオリア構造では、大規模報告と無報告課題を組み合わせた研究も行っています。大規模に色の類似度をオンラインで測ると、色の類似度構造は、通常言われているような3次元(明度、彩度、色彩)では捉えられなさそうです。また、様々な色を無報告課題で見せると、報告に関する部位の活動は減少しますが、視覚野での活動は変わらないか、むしろシャープになっている、という予備的な結果も得ています。このような結果を積み上げることで、我々の日常生活の直観にはしっくりくる、西田幾多郎やジェームスが言っていた、言語化・報告・判断の前の「純粋経験」の世界を研究する手立てが得られるのではないでしょうか?

意識やクオリアは研究できない、とするような概念的なバリアは、オンライン実験などの新しい心理学のツールや、高精度の脳イメージングや、理論神経科学(統合情報理論)などと結びつくことで、どんどん崩れていくことでしょう。研究の妨げ・理解のバリアを根本的に問いただせば、モノとこころ、脳と意識の関係性への理解の道は開けて来るでしょう。その道の先に、主観と客観は対立したものと考えるべきか、という西田幾多郎の根源的な問いがあり、この世界のあり方、人間の生き方へのヒントがあるのかもしれません。


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