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義母との同居で、一番に言われたこと。

義母と、同居を始めたとき。
最初に言われた言葉は、

「お釜の底が見えてはいけないよ」
だった。

実際にお釜を開けて見せ、残り少なくなっていた白米を杓文字で切りながら、

「いつ、誰が来ても、たっぷりご飯を出してあげれるようじゃないとね」、と。

お釜の底が見えてはならない、

その一言が、この家の全てを語っていると、後に私は気が付いた。


義母の家は、カジュアルな来客が多かった。

勝手に玄関から入ってきて、
「お母ちゃん」、
と義母を呼ぶ。

義母は夕方仕事から戻って来て、一休みしているときでも、休日に昼寝をしている時も、突然の来客に(たいていの場合お客は突然やって来た)嫌な顔ひとつせず、それどころか満面の笑みをいつも浮かべて、
「ごはん、食べる?」
と、聞くのだ。

「お母ちゃんのごはん」を食べて、日頃のあれこれを喋って、人々は、
「じゃあ、又ね」と帰って行った。

まるで食堂だ。もちろん無料の。

くわえタバコで、夕方にはビールを片手に、大鍋を器用に振る彼女の姿は、かっこ良かった。

広い、オープンキッチンで、料理をしながら、義母は人々の話に寄り添いながら頷いたり、笑ったり、時には憤慨したりもした。


義母の人気の献立は、アナゴの入ったチラシ寿司や、トリの炊き込みご飯、肉うどん、白身魚のフライ。
切り干し大根や、地元で採れる太くて黒々としたヒジキの煮物など、お惣菜定番は誰でもが好んでつまんだ。

切り干し大根と言えば、大根の季節になると、農家から直に大量に買って来たもので作った。

縦半分に切った大根をさらに数個に切り分け、イカの足のように大きめに切り込みを入れ、それをクリーニング屋でもらうハンガーに吊るして干すのが 毎年の恒例だった。

太くて食べ応えのある切り干し大根は、鶏肉と揚げを一緒に煮るだけで、色合いは地味だけれど、私にはそれが副菜ではなく、メインになるくらい好きだった。


テーブルによくのっていたおむすび。


義母のおむすびには基本、何も入っていない塩ムスビだった。


これがどうしてだか、いくつでも食べられるくらい美味しかった。

あのごつごつとした、大きな手のひらに絶妙な量の塩を振りかけて握っていく。義母お気に入りの特選海苔は、食べる直前に巻くからいつもぱりぱり。

どうすれば、食事がちょっとでも美味しくなるか、そんなことをいつも義母は考えていて、工夫して出していた。


おむすびの横に添えられていたふわふわの卵焼きは、どんなに真似しても叶わなかった。

以前、日本から義姉が我が家にやって来たとき、私の娘たちも加わって、義母の卵焼き再現コンテストをしてみたことがある。
私はその頃には、かなり自信をつけていたのに、やっぱり義姉が一番だった。義母の卵焼きを小さい頃から食べてきたからに違いない。

家の目の前にある瀬戸内海で取れた魚を誰かが持ってくれば、手際よくさばいて刺身や煮つけにして、すぐに食卓に出してくれた。

生のタコがやって来たときには、彼女はそれを茹でるまえに口にして、吸盤が口の中でひっついている、と面白がって、私にも勧めた。

私は、タコを生で食べられることも知らなくて、薄い緑がかった物体が鮮やかな赤に変わる様を手品のように眺めた。

義母は、最後までみんなの「お母ちゃん」だった。

晩年に母がベッドから起き上がれなくなったころ、
「お母ちゃん感謝祭」をやろうと、誰かが言い出して当日は、のべ60人余りの人が母の自宅へやって来た。

普通の家庭では見ないような大鍋に、義母のレシピを再現するべく、牛筋のたっぷり入ったおでんと、カレーに、夫と義姉が取り掛かった。

もう食べることは出来なかった義母の寝ているベッドのそばで、二人はおでんとカレーの秘伝を聞きながら、作った。

「みんなでご飯を囲んで、笑って暮らせるだけで幸せなんよ」

義母はつねづねそう言っていた。

義母にとって、「みんな」、とは、
本当に「みんな」、で、
誰でもが
「お母ちゃん」と家のドアを開けて、ごはんを食べていくことができた。


こんな母親を持っていたせいだ。

カリフォルニアに居を移して、夫が、レストランをやりたいと言い出した時、
私は、
「家族みんなで夕飯を囲めなくなる職業だけは嫌だ」
と反対したのに対して、夫は、

「町の人、みんなが家族だ、って思えばいい」
と、さらっと即答して、
私を黙らせた。

幸運にも、私たちはレストランを開いて数年で、スタッフに店を任せられるようになった。子供たちと一緒に夕食を囲むことは諦めずに済んた。


義母と暮らした3年の間。

内向的な両親に育てられた私には、びっくりすることばかりだった。

こちらの勝手などお構いなく、突然やってくる来客。
それを当然のように、遠くから来た親戚のようにもてなす義母。

義母は私に、嫁としてそれを一緒にやるように、手伝うようには言わなかった。それは義母の楽しみだったのだから。

けれど、そんな生活スタイルにも慣れて、私自身のペースを見つけ、これから先も義両親と一緒に暮らしていく覚悟が自然に生まれた、3年後だった。
私たちは、カリフォルニアに引っ越すことになった。

実を言うと、先行きが不透明なままのカリフォルニアへの移住だった。
それが決まったころだっただろうか。
義母が言った。

「みんなにご飯を出すでしょう。
だから、っていうわけじゃないんだけど、
うちの子供たちも、こんなふうにどこに行っても、もてなしてもらえたらな、って思うことがあるんよ。
うちの子供たちが、どこに行ってもお腹を空かすことがないように、って思うんよ」。

義母の心の底にあった、願いを聞いた。


義母の積んでくれた徳のお陰で、私たち家族、日本で暮らす義姉も、こうして笑ってごはんを食べることが出来るのかもしれないな、

そう、義母を思い出すことがある。


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