「ああ、そうなのか」という理解で、人生はもっとシンプルになる。
ある金曜の、ディナータイムのこと。
店内のフロントで、次に空くテーブルを待っているカップルの後に、新たにお客様が入ってきた。
席は30分後に空きます、と告げると、その60代くらいの女性がすごい剣幕で怒り始めた。
予約を入れようと何度も電話したのに繋がらなかったのよ!と。
他にも何かを言っていた気がするけれど、あまり覚えてはない。
うちの電話ラインはひとつしかなくて、金曜の夜となると予約やテイクアウトのオーダーで電話は通話中のことが多い。
私が彼女に謝って、次の来店をお待ちしていますね、と伝えると、彼女は怒り顔をそのままに、憮然として、
「ウエイティング・リストに入れてくれる?」と言った。
わっ!
こんなに怒っても、まだここで食べようって思ってくれるんだ、と感じて私は嬉しくなった。
名前と電話番号を私がリストに加えたあと、彼女と連れの人は出て行った。
彼女が出て行くや否や、今度は一部始終を見ていたカップルが怒り始めた。
「あんな人たち、もう来なくていいって言えば良かったんだ!何だ、あの言い方は、失礼にもほどがある。ウエイティング・リストを貸してくれ、僕が彼女の名前を消してやる!」
こちらも結構な剣幕で、その後もカップルは「失礼」な人について盛り上がっているようだった。
私といえば、忙しいさなかの出来事で、この小さなレストランの中で起こっては流れていく状況に、いっしょに流れている。
まるでダンス。
ダンスの途中で、留まるのは不可能で、まさに一瞬一瞬との一期一会。
お店に一歩入って来た人が、帰るときには、喜んで出て行ってくれることがゴール。
そのために出来ることは何でもするけれど、出来ないこともある。
改善すべきことは、ちゃんと後から為されていくことも知っている。
働く人、お客様、人々が多く行き交うこの場所に長くいたせいか、誰かが見れば「苦情」だとか「失礼」だとか思うことも、流れの中にいれば、出来事にラベルを貼る必要性もなくて、ただそういった事が起こっている、しかない。
いちいち判断するスキもなく、
ただ、
「ああ、そうなのか」、
という納得が、理解が、その出来事に対して湧いてくるだけなのだ。
去年だったか、うちで働いていた、若い女の子が何も告げずに突然辞めたことがあった。
20年店をしてきてこんなことは初めてで、驚いた。
代わりの人手を確保するまでは焦ったけれど、そのときも、
「ああ、そうなのか」、
という納得だけがあった。
誰もが自由な生き方をしたらいいんだよな、という清々しささえあった。
だって、どんな理由があるにせよ、職場を何の前触れもなしに、いきなり辞めるなんて、私だったら絶対できない、と思っている。
迷惑がかかるとか、モラルに反する、とか考えて。
だから、辞めていった子は、どちらかというと、私にとってもヴィヴィットな、「自由」なカラーを残していった。
もちろん、流れの途中で、大きな岩にひっかかって留まる木の葉のように、店が終わった後も、留まっているものが心の内にあるのを発見することもある。
そんなときも、
「ああ、そうなのか」、が現れる。
お客様からの
どんな意見や、コメントや、反応も、
自分のも含めて、
「ああ、そうなのか」。
その言葉だけが、ぽつんと存在する。
なんて潔くて、すっきりとした理解なんだろう。
判断や、起こった現実にあらがうことも、自分のツゴウに合わせてストーリーを作ることもなく。
それは、雑音から離れて事実をだけを、シンプルに見せてくれる。
あとは自然に、自分がやるべきことが現れてくる。
そして、前へすすむ。
すでに起こってしまったことは、変えられない。
現実にあらがったって、勝ち目はないと、さんざん思い知らされた。
それでもあがいて、受容のプロセスを踏んでいくんだけれども。
でも、いつ頃からか現れた、
「ああ、そうなのか」、
という、深くから湧いてくる納得が寄り添って、
日々が流れていくようになった。
この理解のおかげで、私はあまり起こったことについて考えこむこともなく、様々な人を相手にして、仕事をしていられるのだと思う。
立ち止まって考え込むよりも、前へ前へと進んでいくしかない。
今日は今日の出会いがある。
目の前に展開する、どんなことも信頼して、受け入れる、
ジャッジメントなしに。
そのときに出てくる言葉が、
「ああ、そうなのか」。
それは、子供のころに持っていた、この世界への視線を思い出す。
判断というものを知らずに、ただありのままを見ていた、あの瞳。
驚きに満ちて。