「怒り」の正体
自分を揺るがしてしまうほどの、感情の波が来た時に、
どうしていいか分からなかった。
この大きな、大きな波をどう扱っていいのか分からなかった。
自分の頭の中の引き出しをさぐる。
深呼吸して、自分に戻ろうとする。
え?
でも、
戻る自分って、どこ?
怒りで胸が押しつぶされそうだった。
こんなにも、激しく自分の感情を感じるのは、本当に久しぶりだった。
だから、自分を迷子になった子供のように感じた。
この怒りは、何なのだろう?
自分と切り離してしまえば、楽になるんだろうか?
何かにしがみつき、それを掴みたい気持ちにかられた。
そんな中でもただ一つ、はっきりと分かっていたことがある。
怒りを引き起こした出来事が問題なのでなく、「怒り」という感情が、この出来事を通して出ていっているのだ、ということ。
そう、「誰も悪くない」。
それでも、相手への憤りも収まらなかった。
夕べ、そのことが起こった後で、私は仲のいい友達を誘って、バーに行った。
彼女には何も言ってはいない。バカな話をして、ふたりで笑って帰って来た。
楽しかった。
でも、怒りを見ないように、他の何かで誤魔化しても、それはいつも戻ってくる。
身体に意識を移せば、重い石を胸に押し付けられているような感覚を感じた。
それを素直に感じると、分かった。
そうだ、これだった。
この身体の中にある、怒りという感覚。
この感覚に文句をつけていたのが、エゴ。
どうすればいいのか、と迷っていたのも、エゴ。
怒り、そのものは悪くない。
というか、悪いも良いも、始めからなかった。
エゴの声というのは、私たちを「事実」から引き離し、どんなことにもジャッジせずにはいられない。そこで問題になるのは、私たちがその「エゴ(思考)」を自分自身と勘違いして、信じてしまうことだ。
私は、ユヴァル・ノア・ハラリの「21Lessons」という本の一節を思い出した。
彼は世界的ベストセラーになった、「サピエンス全史」や「ホモ・デウス」の著者でもある。
彼が24歳の時にに行った講習は、「ヴィッパサーナ瞑想」を学ぶものだった。そのテクニックは、「心の流れは身体の感覚と密接に結びついているという見識に基づいている」とある。
私はリラックスして座り、身体の感覚だけを観察することにした。
もう「怒り」を悪者にはしない。あってはならないものだという思考の声を相手にしない。
しばらくすると、胸に感じていた重圧は、霞のように消えていき、気が付くと、喉に窮屈な感覚を感じた。
それでも、まだ胸に何かが戻って来そうな気がする。
けれど、それも「事実」とは関係のない「思考」にすぎない、と見抜く。
身体の内側がわずかに震えているのに気づいた。
「感情」はリアルだ。
こうして、身体にじかに作用する。
アタマで考えて、湧いてきた感情を処理しょうとするのではなく、身体のどの部分にそれが現れているのかを、じっと観察する。
「怒り」とは何なのか、
それを本当に知るまでは、いつまでも自分の心のパターンは繰り返される。
夕方になって、「怒り」がすっかり私の身体から離れていったことを確認してから、私はその人に会った。
夕べはもう、顔も見たくもないと思っていたのに、私は平気で、しかも笑顔で自分の真実を話した。彼女は簡単に自分の誤解を認め、しかも誤ってくれたのは、意外だった。
実際に起こったことは、大したことではなかったのだ。
ただ私の中で、これまで抑圧されていた「怒り」という感情だけが、解放されたがっていただけで、「怒りの対象」なんて、何だって良かったのかもしれない。