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藁をつかもうとしてしまうこと

先週のセラピー・セッションで、「これだ」と響いたトピックがあったのでシェアすることにした。

「あなたにとって、とても心から安全だと感じる場所はありますか。」、この質問だった。どういう経過でこの質問に行き着いたのかは、とりあえず保留。

答えは、「そのような場所は、今はない・・・。」だった。これを掘り下げていくと、これは「場所」だけについての質問ではなかった。つまり、「安全を感じられる年代」でもなく、「安全を感じられる心理境遇」でもないからだ。前回のポストの延長線にある質問。「万が一、何かあったとき」、認知症という深刻な問題を抱えている両親に頼ることはまず不可能、他の家族とも、皆、疎遠になっているため、頼ることはできない。しかも、遠距離だ。

本当に、私たちは、孤立した核家族なのだった。私の同僚たちや、友人たちも同境遇の人たちがとても多い。私の同僚の半数以上は、ドイツ在住の外国人たちだった。他の欧州EU圏内や北米から、さらには、IT教育で知られるインド、アジアや中東からの経済移民もかなり多い。以前、他のポストでも書いたが、IT業界では人材不足が深刻だ。これは、英国も同様だ。日本であれば、東京在住の壮年期ワーカーの方々は、ほとんどが地方出身者であるのとよく似たノリだ。

実のところ、皆が感じている不安だろう。しかし、誰も軽くは口にださない。「もし、私に何かあったら、誰が一体、家族(子供)の世話をしてくれるのだろう・・。」もちろん、これは同僚や友人に頼むには重すぎる。

このポストのタイトルにアルベルト・ジャコメッティの彫刻を使わせていただいた。私たちは皆、大きな不安を抱えて生きている。しかし、お互い、頼りあうこともできない。この実在主義アーティストの作品が心に響く。私たちはこの彫刻のようだと感じる。

このトピックから、セラピストと話が発展して、体の痛みについて話すことになった。私は、長年、体の同じ部分が痛む。特に、首がひどい。

「力を抜くことができますか?」こう言われて気づいた。そう言われてみれば、いつも、首や腕に力が入っている。手もそうだった。首の痛みは、手や腕に原因があるケースも多いらしい。「何か、必死で摑もうとしていませんか? 安全な場所にいないと感じているのであれば・・・。

私:「そうですね、無駄な力が、常に入っている気がします。」
ビアンカ(セラピスト):「マッサージ治療などを受けられることがありますか?」
私:「ありますが、2、3日すると効果がすぐに薄れます。」
ビアンカ:「やはり、局部的治療では、根本的な解決はないでしょう。」
ビアンカ:「あなたが、心から安全できる心理的な状態を確保しないと、常に痛みがあるかもしれませんね。いつも、無駄に体に力が入っているのでしょう。」
私:「”溺れる者は藁をも摑む”という諺があるように、体が、常に藁をつかもうとしているかのようです。いつも体が緊張しています。頭では、この緊張感にともなう利益はまったくないとわかっていますが・・・。逆に、体に悪いとわかっています。」
ビアンカ:「では、リラックス療法だけでも多分、効果がありませんね。」
ビアンカ:「あなた自身が、リラックスして、体から力を抜くことを許可していないのですから!」

この、上記最後の言葉がとても響いた。もっともだ、と感じた。

ここからの話の展開からは、意外なところに行き着いた。どうやら、私は、「子供や家族のため」の遺書と、「万が一」のためのプロセスやコンタクト先を財布の中に常時入れていることで、幾らかは不安が和らぐのではないか、という結論だった。いつも、こういったことをちゃんとしておかなければ、と思いつつも多忙のせいで「宙ぶらりん」になっていた。そのせいで、漠然とした不安がいつもあった。

もちろん、これで、全て不安がなくなる訳ではなかった。私たちは何かを常に「抱えて」生きている。そして、これが本当に「必要な重荷」だと検証する時間の余裕もない。この検証が次のセラピーの課題だった。

上記のジャコメッティの彫刻について、もう一つ加えておく会話があった。

私:「私たちの世代は孤立しているのではないでしょうか。グローバル化などで、私たちの周りの人たちも皆核家族ばかりです。」
ビアンカ:「あなたの周りの人たちと、こういう話をしてみたことはありますか。」
私:「同僚とは、こういう話はあまりしません。しかも、テレワークが多いため、仕事の話だけ、という状態がほとんどです。」
ビアンカ:「それは、単に境遇の話でしょう。あなた自身はどうなのでしょうか?実際、あなた自身、心を開く準備ができていますか。」

この質問については、まだ結論はない。

では、このへんで・・・。

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