スポレート大聖堂:可憐なロマネスク様式の聖堂に描かれたフィリッポ・リッピのフレスコ画
1. スポレート大聖堂と周辺施設
今回のnoteでは、ウンブリア地方ペルージャ県の一都市、スポレート(Spoleto)の大聖堂について書いていく。
こちらの写真を見れば分かるように、スポレートの大聖堂は、緩やかな坂を降りた広場に建てられており、ちょっと不思議な感じがするかもしれない。
それは、このスポレートの中心地自体が一つの丘に建てられており、自然の地形を活かした建築なのであろう。
またスポレート大聖堂の周辺には、
教区美術館(Diocesan Museum)
鐘塔(The Bell Tower)
といった関連施設が存在する。
スポレートの大聖堂の左側に立つ鐘楼は、おそらく1173年から1198年の間に建立されたと推定される。
また大聖堂へと降りていく階段の手前に存在する教区美術館は、1960年代に設立され、スポレートと近隣都市ノルチャの大司教が残した美術品を所蔵・展示している。
今回は鑑賞できなかったが、所蔵品の中には、ネーリ・ディ・ビッチ (Neri di Bicci;1418-1492)、後に詳述するフィリッポ・リッピ( Filippino Lippi)、 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini;1598-1680)らの作品もある。
この美術館には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(Friedrich I, Barbarossa;1122-1190)が都市を略奪した後、和平の印として都市に送ったビザンツのイコン(アルベルト・ソツィオ・1187年 作)も展示されているらしいので、こちらの鑑賞は次回の課題である。
大聖堂の右手の丘の上に見えるのがアルボルノス要塞である。
こちらは大聖堂から広場を見渡した様子。
緩やかな階段が奥の方に見えるであろう。
次の章からは、大聖堂の建築・装飾や、中の美術作品について見ていくことにしよう。
2. スポレート大聖堂の歴史と可憐なファサード
実は、スポレート大聖堂の起源ははっきりとは分かっていない。
残されている記録によれば、大聖堂の前身であり、かつ司教の管轄下にあったサンタ・マリア教会は、956年にはすでに存在していたとのことである。
時代が下り、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサ(Friedrich I, Barbarossa;1122-1190)が都市を掠奪した後、教会は、改築された。
こうして今の姿となった大聖堂は、1198年、教皇インノケンティウス3世によって聖別された。
※聖別:人やものを神のために用いるために、聖なるものとして一般的・世俗的なものから区別する行為。
この大聖堂のファサードは、下部、中間部、上部の三つのパートに分けられる。
ファザードの下部は、アンブロージョ・ダ・アントニオ・バロッチ(Ambrogio di Antonio Barocci)とその工房の者たちによって15世紀に作られたルネサンス様式の開廊となっている。
そこには、その周りを彫刻で装飾された三つの扉が設置されている。
ファサードの中間部には、12世紀末に作られたと推定される5つの薔薇窓がある。
中央の一番大きな薔薇窓は、直径4メートルもあり、その四隅には4人の福音伝道者が彫られている。
さらにファサードの上部には、三つの薔薇窓とともに、ビザンツのソルステルヌス(Solesternus)が制作したとされるモザイク画『祝福を授けるキリスト』(Christ giving a Benediction; 1207)がある。
このモザイク画には「ソルステルヌス博士、当世風の芸術家」(直訳すると「その技術・芸術において現代風・進歩的である」くらいか) (Doctor Solsternus, hac summus in arte modernus)という文字がキリストの足元に書き込まれている。
この作者については、あまり情報がないのであるが、これが誰に向けているメッセージかは、専門の人による研究を参照する必要があるので、ここでの説明はこれくらいにとどめておく。
3. フィリッポ・リッピの遺作
教会の中に入ると、比較的シンプルな造りながらも、繊細な内部の装飾に目が奪われる。
中央の身廊部の床には、コスマティ(Cosmatesque)という細やかな大理石のモザイクを使った装飾が施されている。
奥の方に見えるアプス(教会の奥の丸屋根の張り出し部分)には、フィレンツェの画家フィリッポ・リッピ(Filippo Lippi;c. 1406-69)の遺作『聖母マリアの生涯』(Life of the Virgin)が描かれている。
修道士でありながら画家としての才能を活かし活躍していたフィリッポ・リッピは、修道女を妻にしたため、修道院の出入りを禁じられてしまった。
後に還俗したリッピは、子供にも恵まれ、その息子フィリッピーノ・リッピも画家として活躍した。
1467年、大聖堂の壁画の制作のために家族と共にフィレンツェからスポレートに移り住んだリッピであったが、その2年後の1469年、制作中に亡くなってしまった。
その後、リッピの弟子である修道士ディアマンテ(Diamante)とピエルマッテオ・ラウロ・デ・マンフレディ・ダ・アメリア(Piermatteo Lauro de' Manfredi da Amelia)が制作を続け、完成させた。
またフィレンツェを代表する画家であるフィリッポ・リッピの墓を、スポレートに建立するか、フィレンツェに建立するか、それぞれの都市政府の間でやりとりがなされた。
結果的に、フィリッポ・リッピの墓は、スポレートに建てられることになり、今もリッピは、スポレートで眠っている(お墓については次の章で見ていく)。
フィリッポ・リッピ作『聖母マリアの生涯』(Filippo Lippi, Storia della Vergine, 1467-69)より『聖母の戴冠』。
こちらは、アプスのドーム型の天井に描かれた『聖母の戴冠』であり、とても色鮮やかに残っている。
またアプスの後方の壁には、二つの柱で区切られる形で三つの場面が描かれている。
柱と言っても本物の柱ではなく、描かれた柱であるが、とても立体感がある。
左側には『受胎告知』、中央には『聖母の死』、右側には『キリストの誕生』。
『受胎告知』(左)。
『キリストの誕生』(右)。
『聖母の死』(中央)。
ストーリーの順番としては、『受胎告知』→『キリストの誕生』→『聖母の死』→『聖母の戴冠』であろうか。
よく見ると死の床にあるマリアの顔は土気色であるが、戴冠されているマリアはすっきりとした表情をしておりとても若々しいことに気づく。
リッピの作品に描かれるマリア像や天使は妻子をモデルにしたものもあると言われているが、この清らかで優しげな顔をしたマリアも、彼の妻をもとに描かれているのであろうか。
4. フィリッポ・リッピの墓と礼拝堂
フィリッポ・リッピのフレスコ画の他にも、大聖堂内では、17世紀から18世紀にかけて施されたという細やかな装飾や美術作品を楽しむことができる。
大聖堂の両サイドの通路には、それぞれ6つの柱間がある。
これらの通路部分は、教皇に就任する前にスポレート司教も務めた経験を持つ教皇ウルバヌス8世(Pope Urban VIII;1568-1644/ 在位 1623-44)の命令によって、17世紀に改築されたのであった。
ファサードの薔薇窓を内側から見上げた様子。
大聖堂の正面の左右には、豪華なパイプオルガンがそれぞれ設置されている。
また左側の通路部分には、フィリッポ・リッピが眠る墓がある。
式典か何かの後らしく、椅子が設置されたままになっている。
こちらがお墓、剣や小鳥、花や星などが細かく掘り込まれている。
(Monumento Funebre di Fra Filippo Lippi;1490/ Anonimo scultore fiorentino su disegno di Filippino Lippi, epitaffio di Agnolo Poliziano, commissionato da Lorenzo de Medici)
1490年にフィレンツェの事実上の支配者ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de Medici;1449-1492)が墓の制作を委託したと書かれている。
フィリッポ・リッピの墓をフィレンツェに建立するか、スポレートに建立するか論争があったことは先に述べた通りであるが、リッピが亡くなったのは1469年、墓が建てられたのは1490年というタイムラグを見ると、議論はずいぶん紛糾していたらしい。
いずれの都市も、偉大な芸術家の墓は、是非我が都市に、それが都市の栄光につながる、と考えていたようである。
またリッピの墓と向き合う形で、ジョヴァン・フランチェスコ・オルシーニ(Giovan Francesco Orsini)の墓がある。
(Ambrogio Barocci, Monumento Funebre di Giovan Francesco Orsini, 1500)
ローマの貴族オルシーニ家は、ウンブリアの各都市で影響力を持っており、現地の有力者とも強い結びつきがあった(この辺は、筆者の博士論文でも扱う予定なので、論文が発表されるまで待っていただきたい)。
またこちらは、リッピのフレスコ画あるアプスの右に位置するサンティッシマ・イコーネ礼拝堂である。
(Giovan Battista Mola, Cappella della Santissima Icone, 1626)
複雑に組み込まれた大理石がとても美しい。
天井も目を見張る豪華さである。
そしてアプスの左側には、サクラメント礼拝堂がある。
(Cappella del Sacramento, 1583-1632)
この大聖堂の中にはいくつもの礼拝堂があるのがまた興味深いところであるが、こちらの聖遺物礼拝堂(Cappella delle Reliquie)は、ちょっと特別である。
というのも普段はライトが落とされ真っ暗であるが、0.5ユーロを入れるとライトが点灯し中の装飾をよく見ることができるという仕組みになっているからである。
2020年10月に訪れた時には生憎0.5ユーロを持ち合わせていなかった上に崩すことができなかったので、2018年5月に撮影した写真を掲載しておく。
(Cappella delle Reliquie)
またこの礼拝堂にはアッシジの聖フランチェスコ(Francesco d'Assisi;1182-1226)から修道士レオに出されたという直筆の貴重な書簡が残されていると公式ホームページで読んだが、この2018年に撮影された写真からは確認することができなかったのでまた次回に。
こちらはエローリ司教の礼拝堂に存在するピントゥリッキオ(Bernardino di Betto;1454-1513)のフレスコ画。
(Cappella del Vescovo Eroli, affrescata dal Pinturicchio, 1497)
ブックショップのそばにあるこちらの礼拝堂、実は2020年10月に訪問した時には閉鎖されていた。
▶︎2023年3月追記:
2023年3月に訪問した時には開いていたのでその時の写真を追加で掲載する。
ピントゥリッキオは、ヴァチカンにて「ボルジアの間」を制作したことで有名であるが、ボルジアの間の制作の後、こちらの大聖堂のフレスコ画を制作したとされている。
(Cappella di San Leonardo)
またショップにはフィリッポ・リッピモチーフのバッグや文具など色々なものが揃っていた。
以上、盛り沢山の内容となったが、スポレート大聖堂の魅力を紹介した。
その大きさは、ミラノの大聖堂と比べるとこじんまりしているが、中の美術作品や装飾はとても素晴らしい。
ルネサンス時代を代表する芸術家であるフィリッポ・リッピやピントゥリッキオの作品が残されていることを考えると、スポレートという都市は、小さな都市でありながらも、高い統治能力を備えた自治体であったことが推測されるのではないであろうか。
ウンブリア地方のスポレートに限らず、イタリア各地には、このような中小都市が数多く存在する。
筆者個人としては、まだ見ぬ地をこれからどれくらい訪れることができるであろうか、そんなことを考えながらGoogle マップを見ていると、あっという間に時間が過ぎてしまうのである。
スポレート大聖堂(Duomo di Spoleto)
住所:Piazza del Duomo, 2, 06049, Spoleto, Perugia, Italy
開館時間:
3月1日から10月31日まで
10:30-18:00(月曜から土曜まで)
12:30-18:00(日曜祝日)
11月1日から2月28・29日まで
10:30-17:00(月曜から土曜まで)
12:30-17:00(日曜祝日)
入場無料
参考:公式ホームページ duomospoleto.it
(写真・文責:増永菜生 @nao_masunaga)