【読書感想】本田晃一さんの『不思議とお金に困らない人の生き方』を読んで
はじめに
みなさんはお金、というものにどんなイメージを持っているだろうか?
お金は汚い、下品だ
お金の話をする人は卑しい
お金持ちはいやなやつ、わるいことをしてる
マイナスのイメージを抱いている人が多いんじゃないだろうか。
かく言うわたしもそう。
お金は欲しいんだけれど、なんだかたくさんお金を持つことがこわい、と思ってしまう。
分不相応な気がしてしまう。
お金が大好き〜!!ということがはばかられてしまう。
お金に対して、少し一歩ひいてしまう…そんな人にぜひ読んでもらいたい1冊だった。
お金に対するイメージ
お金って不思議だ。
なんでも買えちゃう、欲しいものが手に入るパワーを持っている。
その実態はただの紙なのに。
ただのアルミなのに。
あるいは最近は電子になって、実態すらもたなくなってきたのに。
殺人事件が起こるほどの意味を持ってる。
そしてその意味のつけ方は人それぞれなんだなと感じることがたくさんある。
お金に困ったことのない人は関心がないかも知れないし、「あるのが当たり前」かもしれない。
お金にすごく困った人は、お金ってすごく怖くて、「なくなるのが怖いもの」だと思うかもしれない。人を殺してでも奪いたいものかもしれない。
人生でお金というものにどんな意味づけをするかは、わたしたちが人生で体験してきたことが大きく関わると思うのだ。
あなたはどうだろう?
わたしはものすごーく裕福なおうちではなかったけど、大学まで好きな進路に進ませてもらって、不自由なく生活させてもらってきた。
だからお金に苦労した経験というのはそんなにないんだけれど、共働きの両親を見て「働くことは苦しいことだ」「苦しんではじめてお金がもらえる」という考え方を刷り込まれたように思う。それはもうスリスリと、時間をかけて。
営業の仕事についてはじめて気づいたけれど、わたしはいつのまにかスリスリ刷り込まれたお金のイメージをこじらせまくって、「こんなわたしがお金をもらうなんて申し訳ない、恐れ多い。もっと身を削るようなことしないと。」と思うようになっていたのだった。自己卑下卑屈マン参上。
きっと両親は一生懸命働くって大切なことなんだよ〜!って言ってくれたんだと思うけど、長い年月を経ていろんなものを見て、偏見で覆い隠して歪めてしまったらしい。
伝言ゲームが全く違う言葉になっちゃうのと同じだ。たった1人に伝える言葉でさえも、わたしの経験とかそのときの感情とかを乗せて伝えたものを、相手も自分の経験とそのときの感情を持ってして受け取る。さらに時間をかけて熟成するかもしれない。フィルターのミルフィーユ構造を突破して相手に伝わるのだ。
わたしが誰かに発した言葉ももしかしたら歪んで伝わってしまうこともあるかもしれないなと思った。気をつけようもないんだけれど、でも肝に銘じておきたい。
さて、いつも前置きが長すぎるんだけれど、そろそろ本題へ。そんなこんなでわたしが長い間熟成してきた思い込みを変えてくれる素敵な言葉が詰まった本だったから紹介したい。
『不思議とお金に困らない人の生き方』を読んで
おカネの集合意識を名乗る「金じい」との対話ではじまるこのお話。
お金がないが口ぐせの主人公が、お金に困らない自分になるにはどうしたらいいんだろう?と悩んでいて、金じいが優しく導いてくれるお話だ。
おかねのなりたちにはじまり、お金持ちのお金に対するスタンスやお金を呼び込みやすい在り方について書かれている。
まずは「お金が全てじゃない」と思っているわたしに、正面から急所にどストレートの一撃。
たしかに、あれ食べたいとか、これ欲しいとかを叶えてくれるのはおカネである。社会人になって痛感したのは、勉強するのにもたいそうなおカネがかかることだ。
幸せはおカネで買えちゃうのだ。おカネはやりたいことを叶えてくれる仲間なのだった。
世の中には詐欺みたいな変なお金のもらい方をする人がいるから、お金持ちは嫌な奴だとかいうイメージがついてしまっているだけだ。
じゃあおカネの本質ってなんだろうか。
物々交換から自分の持っている豊かさの交換が始まり、それをいろんな人と共有できるようにしたのがおカネだ。魚をとるのが得意な人、きのこをとるのが得意な人がいるとする。物々交換だけだと、今日は魚の気分じゃないなって時は交換できない。そんなときに役に立つのが、共通の価値として認識されるおカネの存在だった。
おカネとはありがとうの証。あなたから受け取りたいという承認の証でもある。
詐欺を働いている人は、みんなから感謝と承認を騙し取っている。残念ながら詐欺を働く人はこの世からいなくならないわけだけど、信頼の輪から自ら外れたい人のことはこのさい気にしないようにしたい。わたしが大事にしたいのは、信頼の輪の中にいる人だ。
おカネは素敵なもの。
ここまではしっかりと腑に落ちた。
わたしにとってはここからが問題だった。
お金を受け取ること。
そんな素敵なもの、わたしが受け取ってもいいのかしら。
大学のときのアルバイトはもちろん時給制、そして新卒で働いた理学療法士という仕事も固定給の仕事で、いわば時給のお仕事だった。
営業の仕事になってから、わたしの働き方がダイレクトに受け取るおカネの金額に直結するようになった。
なんというか、めっちゃ怖かった。
おカネを受け取ってもいいような仕事ができているんだろうか、わたしは??という気持ちが消えないのだ。卑屈マンが心の深いところで巣食っている。
鋼の錬金術でエドが言ってた。
この考え方がすごくすごくしっくりきてた。
世の中ギブアンドテイクで成り立ってる。
たとえば学校の授業ひとつでも、一生懸命聞くからこそ学べるものがある。
授業中寝てて、面白くないんだもんっていう人は何も得られないぞっていつも考えてた。
何かを得るには、身を削るような苦しい思いをしないと。何か差し出さなくちゃ。
エドの言葉通りにわたしはなにかと自分に無理を強いてはじめて「何か得てもいいぞ」と許可を出してた。我慢を美徳とする文化に肩まで浸かっていたのだ。
こんなわたしの考え方を、いい意味でぶっ壊してくれる文章に出会った。
たとえば魚ときのこを交換した時、自分ではとれない新鮮な魚をもらったことで、うれしくなって、魚以上の価値を受け取っているのだという。
さらに金じいはこう言う。
自分なんて、とか、無理して自分を削らなくても自分にできることを信じることで、おカネが自分の周りに循環するようになる、というのだ。
たしかにおカネをもうける、とは人を信じると書いて「儲ける」だ。漢字の言うものはよくできている。
クレジットカードのクレジットは信用という意味だ、とか、信用に対してお金を払うんだ、と言う言葉は今までも聞いていたけれど、それが「自分に対する信用」も含んでるなんて知らなかった。
わたしには、この自分への信用が圧倒的に足りてなかったのだ。
これってエドとアルが最終的にたどり着いた法則と同じじゃないか、って書いてて気がついた。2010年に完結した鋼の錬金術で言われていた。
こんな考え方があるって知ってたのに、忘れてしまっていたのだ。もしくは、なんというか、聞いてはいたけれど意識にのぼってこなかったのかもしれない。
人間は見たいものを見るからね。わたしはこういうことを認識せずに、バチバチの等価交換で成り立つ世界ばっかり見てたんだなぁ、いや、見たかったんだなぁと痛感した。
そんなこんなでハガレン完結から12年もかけて、たまたま読んだこの本を読んだことでつかえていたことすら忘れていた何かがすとんと腹に落ちた感じがした。
どんな仕事も、仕事である以上はその先に誰かの喜びがある。たとえば風俗だとか、日雇いのお仕事だとしても、どんな仕事にも貴賤はないのだ。
他人を信じて、わたしも信じること。
喜びの循環に身を置くことを怖がらないわたしになりたい。
おわりに
話がだいぶハガレンにもっていかれてしまってる。畜生ォ…持って行かれた…!!というセリフがよみがえる。
長い長い時間をかけて、あれってそういうことだったのかってひらめく瞬間だった。まさにアハ体験ってやつだ。そのきっかけをこの本田晃一さんの本がくれたのだった。
このタイミングで出会えて良かった。
とても嬉しい。
わたしも誰かを喜ばせられる存在でありたいと思う。この世の豊かさは雪だるま式に増えながら循環していることを信じて。