呼吸するみたいに今を紡ぎたい。
慎ましく、自分が自分に出来ることを静かに実践されてる方にとても好感を持ちます。
ヨガ教室に30年以上通われてる94歳のおじいちゃんは私がひそかに尊敬する方のひとり。
以前こちらのnoteでも紹介したことがありました。
そのおじいちゃん。昨年の晩秋に亡くなられたと年末にヨガの先生からお聞きしました。
そうかぁ…。心の中でご冥福をお祈りしつつ、人間として生まれたからには避けられない「苦」について思いを巡らせていました。
死を受けとめる
「おじいちゃん」なんてここでは気軽に呼んじゃってますが(笑)面識は全くありません。もしこれが最愛の息子だったり、家族や親しい友人だったりしたら…ヨガ教室のおじいちゃんの死を耳にしたときのように、彼・彼女たちの「死」を静かに受け入れられるのだろうか?はたまた、いつかはやってくる「自分の死」についても素直に受け止められるのかな。
「苦しみ」は避けようとするほどにより大きくなるもの。思い切って「苦を苦しいものだよね」と認識しちゃったその先に、諦めも入り混じりつつのある種の安らぎが自然と湧いてくる気もします。そんな風に(多少なりとも)思えるようになったのは、ヨガや仏教、気功に触れてきた経緯もあるみたい。
人生は続く、の勘違い
人間は肉体として存在できる期間が限られてます。寿命、というカタチでいうなら短い人もいれば長い人もいる。そして、生きる長さは誰にもわかりません。
それでも、ついつい思ってしまうのが「目覚めればまた明日があるよね」という考えです。
「今を生きる」ってシンプルなようで、体感として理解するのはなかなか難しい。
例えるなら…一瞬一瞬が映画のフイルムみたいに別々のものだと見破った上で、都度、新しい思考を意識的に創っていくこと。
私たちは呼吸をするごとにいつもいつも古い自分を吐き出しては新しい自分と出会っているようなものだと思う。
ヨガや気功では呼吸をとても重要なツールとして鍛錬していきますが、体感として「いまを生きる」を実感させるためでもあります。
あたかも一続きの物語のように捉えてしまいがちな(そのように勘違いしてしまう)私たちのクセなり見方を、何度でも何度でも意識して引き戻しながら生きていくことができれば。
「わたしってどうせ〇〇だし」なんていじけずに(笑)いつでも新鮮なもぎたてフルーツみたいに瑞々しく毎日を謳歌できるのです。
「今日を昨日の続きと思うなかれ」
おじいちゃんって、きっとそんな生き方をされてた方なんじゃないかな?と勝手ながら思いを馳せてるわたし。
「生きる」を賢く体現出来る人は「死ぬ」ときも爽やか。潔い。逆に言えば「死」を見据えた上で毎日をどう生きるかが、命ある今を楽しむ秘訣なのかもしれないです。
お会いしたことのない(ただ生き方のご様子を聞きかじっただけ)たった1人のおじいちゃんの生き様から学ばせていただいたことってたくさんあります。
元旦の日にどんな1年を過ごしたいか、わたしなりに自分に問いかけたらこんなnoteになりました。私なりに死生観を育みながら充実した年を紡いでいきたいです。このnoteを読んでくださってるみなさんにとってもよい年になりますように。