笹島秀晃氏の都市と文化の社会学について
笹島秀晃氏は、「都市と文化の社会学ーー企業家主義的都市論から文化生産論へ」、『都市とモビリティーズ』(ミネルヴァ書房、2023年9月)所収、において、都市分析の仕方については、自治体とそれに結びついた企業を軸にする企業家的な分析ではなく、国家や社会運動の組織などを分析の単位にするべきだとしている。これは、特に、笹島氏が研究した、売買春の防止やそれに伴うアートプロジェクトが行われた、横浜市の黄金町での調査において、そうだと思ったからだとしている。
また、海外の事例に関しては、特に、ニューヨークのソーホーにおけるジェントリフィケーションについて、市と企業の結びつきによってそのようなことが行われたと指摘する。そこにおいては、当初に集まったアーティストが結局は街を去らざるを得なくなるといった形のサイクルが生じたとしている。
笹島氏は、そのようなサイクルを受けて、街から出ていかなくてはいけなくなるにせよ、アートに関するネットワークが残ればそれで良いとする。しかし、アーティストたちが、元居た街というリアル世界から拠点を失ってしまうことを、そこまで楽観視して大丈夫かと疑問を抱かざるを得ない。そのようなサイクルは、結局は、利潤自体を追求する傾向が出た場合、サイクル自体を速め過ぎることにつながりかねない上に、アート自体の質が悪化する恐れもあるのではないだろうか。
以上のようなことを考慮すれば、笹島氏の議論においては、まちづくり的な発想の乏しさが欠けているように思われる。もちろん、社会学においては、研究対象を冷静に分析する以上は、研究者と研究対象との間に、適切な距離感がなければならないだろう。特に、マックス・ヴェーバー的な、事実と価値の峻別も研究者としては必要かもしれない。しかし、一応は、アーティストらにインタビューをするなどしたり、彼らや彼女らの行く末に言及していたりはするのだから、研究者としてではあっても、何らかのコミットメントがあっても良いはずである。その点では、都市工学の分野において、コミュニティ作りやまちづくりの活動への分析あるいは提言があることに比べると、いささか、学問的な意味での禁欲が前面に出過ぎかもしれない。やはり、特定の政党や団体に肩入れし過ぎない程度には、行政官の悩み事や市民の困りごとに耳を傾けるような余裕もあっては良いのではないだろうか。笹島氏が学部生・院生時分に属した東北大学は確かに研究第一主義を旨とする組織ではあったが、今現在属する大阪公立大学は、国立大学のコッピーであってはならないことをモットーとするのであるから。
とりあえずは以上です。
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