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湯船散文日記

わたしは5時に起き、22時に帰宅してお湯を溜める。日付が変わろうとしている。湯船に浸かり文章を読む。タブレットでは広告が流れる。
「社会を知らないまま、大学を卒業して……(以下それは悪しからぬことだと指摘)。」

社会だって?
みんな気づいてないだけだ。働く日々が毎日、続くということを。続くということは苦しいことを。演技をする無意味さを。その虚しさを。そうして作られた世界の表面を、我々は" 社会" と呼んでいることを。


サドの話をしようじゃないか。

ひとは罪を犯すことによって、禁じられていた領域を侵犯し、新たな領域を開拓していく。

マルキ・ド・サド(18世紀フランス)


つまり、彼にとって、
〝罪を犯すことは、我々の可能性を拡大するための必要条件である〟
と解釈できる。

我々は、「悪いとされている」ことをしたとき、「教え」に反したとき、罪の意識に苦しむ。近年、うつの症状のひとつにも罪悪感が挙げられていると聞いたことがあるが頷ける。罪悪感は、苦しい。ああ、やっぱり自分は何もできない。生きている罪悪感、生まれた罪悪感 etc..,。だが同時に、その罪の意識を作り上げているのは紛れもないこの「社会」である。教育、親の教え、固定概念(話が長くなるので超自我の話には触れない)、それに背いたとき、ひとは罪を感じる。ご存知の通り、宗教(名指しはしない)は社会形成のためのものだが、肝心な点は、「宗教が罪の意識の教育」であったことだと思う。罪の概念がなければ宗教(≒社会)は発展しなかったと言える。
(今思ったけど新興宗教の二世にうつやひきこもりが多いことはこの理論で説明を試みることができそうである。既にそういう文書あるだろうけど…)
 
サドの理論を発展させれば、逆にひとは罪を乗り越えたとき、新しい創造ができる。だけどもそれでは社会は形成されず、世は混沌とする。社会は空虚だと人々は気づき、貨幣に価値がないことが露見し、我々は前衛的な創造をする。
 
 

思い返せば、働かないと生きていけないとわたしに教えてくれた大人は、これまでに周りに一人もいなかった。
そこには、綺麗事ばかり。生きる意味だとか、将来だとか、貯金だとか、如何にも、"社会" 的な後付けの理由。死にたい、と言うと、「死なない理由」ではなく、「生きる理由」が返される。それが社会か。

わたしには、社会に属してきた事実がたしかに、ある。わたしは遅刻せず会社に通える。睡眠やコンディションをコントロールする。家賃と税金と保険料を払う。笑顔を保ち、敬語を遣う。労働力の一端であるためにそれらを続ける。
 

19歳の少年は怒られてばっかりである。敬語も使えない。マナーもない。清潔感にも欠ける日がある。職場のババアは、事あるごとに彼のことを悪く言う。

だけど彼はわたしにいろいろ教えてくれる。” 大人にも勉強の道は残されている" とか、” 優しさについて考えるべきだ ” とか、” 嫉妬の消失は受容ではない ”とか。
我々は、社会を知らない若者たちから学ぶべきことが沢山ある。社会に属した身で立ち返り、彼等を見るべきである。自分を彼等より大人だと思っていることを、社会を知らないことを悪とする固定概念を、恥じるべきである。


19歳の少年は若くてかわいい。そのままであって欲しい。わたしは彼の大学の話を聞く。徹夜でなんとかレポートが終わったと言う。偉いじゃん、とわたしは言う。

だけど、彼にも時間はない。
 

このまま、この本の終わりまで若ければ良いのにと思う。

ジュネ『花のノートルダム』
冒頭で登場人物をあらかた説明したあとの文章



 若さは燃える。一度灰になれば、また火が着くことは二度と無い。

 

 
【余談】
あろうことか、湯船で読んでいたのは桑原旅人氏の論文『「死の欲動」と「死の本能」の峻別:ラカンからドゥルーズへ』であったのに全然関係ないことを書いている。多分広告のせいだ。わたしの頭の中が整理されていないことだけはたしかである。

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