泳げません
「死のうと思って、遺書を書いて、身辺整理のためにアパートを解約しました。
でも生きていて、引越しが必要ですが、やることが多くて訳が分からなくて、ひとりじゃできません。」
死ねば全部手放せる。そうなればとても楽だ。ややこしい手続きも、支払いも、仕事や人間関係の葛藤も、演技することも、過去も、親との記憶も。悩むことも、残った傷跡も、全部。火葬されれば灰になる。
死にたくて、深い水に身を投げた
当然、溺れる
死にたかったはずなのに
意に反して必死に藻掻く
そうして気付く
そもそもわたし、泳ぎ方教わってない
誰から教わるのかさえ、知らない
泳げたら、自分の足で岸に上がれる
けど、ひとりじゃできない
年老いた神父は言う
泳げませんと言うには覚悟がいる。
泳ぎ方を知らないことを、認めなくてはならないからだ。
それは、情けない。感じる劣等感。惨めだ。耐えかねる、人を頼る罪悪感。ひとりでやらなければと言う思い込みを壊すのは怖い。弱さを見せるのも怖い。見られたくない。死んだほうがマシだ。だけど疲れて、死ぬパワーも勇気もない。かといって、泳ぎ方を調べることもままならない。それら全部を、認めたくない。
だってそんなこと言ったら、怒られる。怖い。怖い。苦しい。怒られるくらいなら全部ひとりでやる。誰にも見つからないように。密かに独りで。
ものは試し、言ってみるもので、福祉窓口に電話をしたら支援員さんが転出に支援措置etc,今の自分からすると到底できそうにない、ややこしい役所手続きに同行してくれた。
誰もわたしに、怒らなかった。
泳ぐ話をしていて思い出した、美しい話がある。
編集者でブロガーの二階堂奥歯は、担当作家である穂村弘との打ち合わせを終え、こう言った。
「穂村さん、これから泳ぎにいきませんか?」
穂村弘は、わぁ素敵な人だ、と感心する。
彼らが次に再開したとき彼女は、
死体だった。
自殺だった。
死は美しい。そこに惨めさはない。情けなさもない。曖昧な自分とは比べものにならないほど、死者は潔白である。
そこから、話は終わりじゃない。そのあとに穂村弘が出版した書評集のタイトルが、これだ。
『これから泳ぎにいきませんか』
震えるほどの美しさには、いつも死が伴う。
それはこの世の、不変の法則なのである。
【余談】
二階堂奥歯のブログ、ネットで公開され続けていて全部読めます。興味ある方下記リンクからどうぞ。書籍化もされています(しかもその講評はもちろん穂村弘)。
日記がだんだん遺書になっていく様が大変美しくてほんとうに好き。天才は早く死ねる。わたしも天才に生まれたかった。彼女が死んだ25歳を、死にたいまま見過ごした曖昧な自分はアラサー無職躁鬱疾走癖人生の底辺である。地獄での希望は絶望なのか?