【実話】#4 学校に行かないを選んだ娘との奮闘記 学校へ同伴登校
応援してくれる方の温かさに支えれて
学校に行けなくなった娘のことを
「そのうちヒョコッと行けるようになりそうなんだよね〜!」と
できる!
行ける!
と励まし続けてくださったのは
息子と娘が長年お世話になったお習字の先生でした。
ちょうど、二人と同じ学年のお子さんをお持ちで
ママ友としても交流させて頂いている方です。
ダンススタジオの公演やイベント出演などにも
必ず足を運んでくださり
娘の踊る姿を見て
「こんなに生き生きして踊っているから大丈夫!」
と言い続けてくれています。
今、思い出しましたが
ダンスの自主公演で、エントランスに飾ってある
『将来の夢』の娘の言葉を見て
「学校に行ってなくても
ダンサーになりたいという明確な目標があるから
学校に行くばかりが全てではないと思う。
むしろこの夢を叶えて多くの方の希望の存在になってほしい」と
一緒にイベント主催をしてきた
花火師の方も、力強く励ましてくれていました。
こんな風に
学校に行けてなくても
娘のことを応援してくれる方がいるというだけで
私は少し救われるのと同時に
いつかどんなカタチかわからないけど
この方たちに恩返しをしていきたいと
いつも心に誓いをたてていました。
学校からの提案・・・
小学校3年生の夏頃になると欠席が続き
教育相談の場が設けられました。
担任の先生と教頭先生と私の三者で
これからについての話し合いです。
「ここまでお休みが続くと
本人も学校に来るのが大変だと思うので
市の教育センターに行かれたらいかがでしょうか・・・」
そんな提案をされました。
教育センターというところは市の教育機関で
学校に行ってない子や
集団に慣れない子
その他、何かしら学校生活で安心でないことがある子が通う場所です。
いろんな状態の子が通っていると思われます。
当時の私は、まだその教育センターに娘を連れて行く気にはなれませんでした。
『なんとか自分の手で
娘を学校に復帰させる!』と思っていました。
なのでキッパリとお断りした上で
逆に先生方に
母である私を
娘のクラスに同伴させてもらうことを提案しました。
学校は、意外にもすんなりと受け入れてくれました。
娘に同伴登校
本格的には
その年の夏休み明けくらいから
娘が学校に行く時にクラスに交わらせて頂くようになりました。
仕事も一切妥協せずやり通しました。
朝、登校班で一緒に歩いて登校。
1時間目か2時間目までクラスに合流。
午前のレッスンに間に合わせるため一旦帰宅。
ダンスやピラティスのレッスンを終え
給食の時間に間に合うように学校へ。
私は持参するおにぎりを給食の時間にクラスでみんなと一緒に食べる。
昼休みも一緒に過ごし
5〜6時間目、帰りの会まで参加。
娘と帰宅。
夕飯の支度をして
夕方からのダンススタジオのレッスン。
かなりのハードスケジュールでした。
毎日、時間との闘いでした。
無駄な時間は一切排除し
仕事と学校
学校とスタジオと自宅の行き来のみ。
時折、エネルギーが足りなくて
娘が学校を休むと
私も少しだけ身体を休めるために
睡眠に時間を費やすこともありました。
何十年ぶりかの学校生活
学校では
図工室で、ノコギリで工作を一緒に作ったり
音楽室で一緒にたて笛を吹いたり合唱したり
体育の時間にはグランドで一緒に走ったり
国語の時間には、進出漢字の書き順を習ったり
まさに、私自身も小学校をやり直すような勢いで
娘の学校生活にどっぷりついていきました。
私が学校に一緒にいるだけで安心する娘は
休み時間や昼休みには
お友達と外遊びにも行けるようになりました。
「ママはここで待っててー」と
私はクラスに取り残されるのです。
一人になった私を
他のクラスメイトは放っておけず
折り紙の折り方を教えてくれたり
塗り絵を一緒にやらせてくれたり
あや取りを教えてくれたり
なぞなぞで問題を出しあったり
そんな風に、母である私のことを受け入れてくれました。
私は娘と同じ年の
年下のお友達がたくさんできました。
小学校3年生。
3年生なりに、娘の状況を理解してくれるお友だち。
その温かさに、純粋な心に
何度も何度も助けられました。
お休みした次の日に登校すると
「授業がここまで進んだよ」とか
「昨日はこんな内容だったよ」とか
親切に教えてくれました。
私が仕事の都合でどうしても同伴できない日や
娘を学校に置いて私だけ帰るとき
クラスのお友達に、深々と頭を下げて
「この後は、どうぞよろしくお願いします」と伝えると
「だいじょうぶ!まかせといて!気をつけて行ってきて!」
こんなセリフまで投げかけてくれるようになりました。
学校という場所は
お友達という仲間は
なかなか良いもんだと思う一幕でした。
一方で
先生方の対応は・・・
時によりですが
厳しいことを
厳しい表情で
親に伝えてくることもありました。
学校という枠にはまらない子を
排除しようとする傾向あり。
休みが続く児童に対しての対応は
あとまわし。
疑問や憤りを感じることも正直ありました。
教師によります。
人にもよります。
学校というシステムの中で生活している時には
規則を守らせ
集団を重んじる一方で
学校を卒業して社会に出た途端に
”個性が全て”
という日本の社会の矛盾。
これは私自身が若い頃から感じてきたことですが
今もなお学校という社会は
戦後の発展途上時代の日本の古い体質が根強く残っている場所だと感じました。
この箱の中で生活していくのは
けっこう苦しい子もいるんじゃないかと思いました。
システム自体が変わらない限り
娘のように学校に行けない子は
できない子
いけない子
かわいそうな子
になってしまう
そんな危機感を感じました。
普通に学校に行けてる子どもの母だったら
気づかない、わからない、知ろうともしなかったであろう
学校という場所の意味。
娘のことをきっかけに
学ぶってなんだろう?
勉強ってなんだろう?
学歴ってそんなに重要?
って、若い頃から抱いてきた疑問が
噴水のように私の中から溢れていきました。
勉強ができても
学歴があっても
コミュニケーション能力が著しくよろしくない大人を見てきました。
”人として”という視点で
関わりをもちたくないなっていう人も少なくありませんでした。
だから
勉強が全てではないし
それよりも
もっと自分が心地良いと思うこと
やりたいことをやっていけば良いと
自分の人生観を
改めて顧みる機会となったのです。
娘の将来を案じるのと共に
私自身も、確かな裏付けとなる何かが欲しいと
本気で思うようになっていったのです。
今日のお話はここまでとさせて頂きますね。
学校関係者や教師の方もお読み頂いているこの記事で
鋭い切り口で書いていることもありますが
あくまでも私個人の解釈によるものであること。
娘のケースの場合という視点でのお話です。
学校に行ってない子の理由は人それぞれであり
この記事に書かれている内容は
一例に過ぎないということを
ご理解いただきたく存じます。
今日もラストまでお読みくださり、ありがとうございました。