生きることは許すことだ
最近ふと死を意識したことで、
いずれ皆死ぬ
と一歩引いた目線から物事を考えるようになった。
ちょっと前までの僕は何かに対して憎しみや怒りや悲しみといったものが入り混じった感情を抱いていた。
でも、今はそんなもの全く感じない。
一言で表すのであればこの感情は「無」だ。
一周回って憎しみや怒りや悲しみといったネガティブなものにエネルギーを使うのが疲れてしまったのかもしれない。
だから、今回書く内容は
・ 死を意識し始めたことによる感情
・ 疲労感から感覚が麻痺したことによる感情
どちらが作用したことにより抱いた感情なのかが自分でもよくわかっていない(もしかしたら両方混じっているのかも)。
ただこれだけは言える。
僕は、少しずつ自分の人生を生き始めている。
許せないという思いが未来への一歩を妨げると知った
先程こんなツイートをした。
これは、ネガティブな感情に支配されることのある人たちに対して向けたメッセージである。
ちょっと前までの僕はこのような考え方はできなかったが、死を意識し始めたことで
・ 過去に憎いと感じた人
・ 自分の存在を否定してきた人
・ 虐めてきた人
に対して、
この(あの)人もいずれ死んでしまうんだよな
と一歩引いた目線から見れるようになった。
そして何だか
彼らを許せるような気がしたんだ。
こんな風に考えるようになってからか、色々な呪縛が解けたような感覚を抱くようになった。
そして、以前よりも前向きに未来への一歩を少しずつだけど前進し始めた気がする。
彼らを許せたことで、
許せないという思いが未来への一歩を妨げていたのだと知ったんだ。
生きることは過去という名の虚像を墓場に葬る行為なのかもしれない
僕はたまに人間はなぜ生きているのだろうと物思いにふけることがある。
これは究極的には人によるのかもしれないが、ただ1つ人間全てに共通していると思うことは、
生きることは過去という名の虚像を墓場に葬り続ける行為なのではないか
ということだ。
きっと、誰にだって人には言えない自分にしか分からない憎しみや怒り、悲しみを抱いていると思う。
そして、一度感じた憎しみや怒り、悲しみといった感情は時間が経てば過去に変わる。
こういった過去に感じたネガティブな感情は時間が解決してくれるという綺麗事を言う人がいるけど、それは
過去という名の虚像を墓場に葬ることができて初めて成し得るもの
だと僕は思う。
過去という名の虚像を墓場に葬ることができない限り、必ずどこかでこの自分にしか見えない過去という名の虚像が行く手を阻む。
だから、僕は
いずれ皆死ぬ
と考えることにした。
そう考えたら、過去に自分に対して、ネガティブな影響を与えてきた人たちも許せるようになった。
過去という名の虚像に生きる彼らを許すことが生きること
いずれ皆死ぬ
こうやって潜在意識の中で思っていたとしても、他人を不幸にして幸せに生きている人間を許すことはなかなか困難だ。
でも、困ったことに彼らを変えることはできない。
それじゃあ、どうすればいいんだろう。
迷った僕は変えられることに着目した。
それは、自分の選択だ。
例えどんなにどん底に落ちても、ネガティブなものに苛まれても、
・ 環境
・ 関わる人
・ 未来
これらを自分の手で選択することはできる。
変えられないものに固執してもストレスが溜まるだけなのだから、
変えられるものに目を向け、
過去という名の虚像に生きる彼らを許すことが生きることなのだと
ふと思った。
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