
どうせ歩くなら書寫山圓教寺
2025年元旦は
縁もゆかりもない姫路のビジネスホテルの一室で
一人迎えました。


それもこれも年末に発生した
家庭内でのいざこざのせいですけどね。
でも!
逆だと思ってみる。
縁もゆかりもあるから
正月早々ここにいるのだと。
そうと決まればとりあえず
動く。
やってきたのは
姫路城の西北10キロに位置する
書寫山(しゃしゃざん)
その山上にある
圓教寺( えんぎょうじ)
「西の比叡山」と称される
天台宗別格本山です。
開基は性空上人(910−1007)

標高371mの書写山。
「書写」ってあのお手本みながら
字を書くやつ?
一度聞いたら忘れられません。
由来を知りたくなります。
諸説ありますが
素盞嗚命(スサノオノミコト)が
この山に降り立って一宿したので
古くから素盞ノ杣(すさのそま)と呼ばれ
ここから
スサ(素盞)
↓
ソサ(曽佐)
↓
ショシャ(書写)
ほう。
じゃ別にこの漢字をあてなくても・・
しかしちゃんと理由があって
釈迦がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の土を
一握り天空から落として作ったのがこの山。
その姿がまるで書き写したかのように
霊鷲山によく似ていた。
さらにこの山上で僧たちが
一心に経典を書写する姿を
人々が称えた。
なるほど。納得。
圓教寺の伽藍は
この書写山の頂に広がっています。
山上まではロープウエイでどうぞ。
(片道700円・往復1200円)
姫路市街や播磨灘を一望できます。
さらにこの日は中国山地の雲海が美しく
心地よい空中散歩を楽しみました。
と言いたいところですが・・
見晴らしよすぎてこわかった💧💦
たまにガクンと揺れるのも
なかなかのスリル。
(事前にガイドさんの警告あり)
車内がガラガラだったので
360度どこ見ても空の上。
逃げ場がなかった💧💦
5分ほどで山上駅に到着。
展望デッキからご来光を拝む。
新年おめでとうございます。

来てよかった。
志納金五百円を納めて入山。
道の両側に並ぶ西国巡礼の観音様に
見守られながら参道を登っていきます。

麓から歩いて登る人のために
参詣道は6つあります。
今登っている東坂もそのひとつで
その他は以下の通りです。
・西坂
・六角 (ろっかく)坂
・置塩 (おきしお)坂
・刀出 (かたなで)坂
・鯰尾 (ねんび)坂

仁王門

三棟造・切妻本瓦葺 (県指定文化財)
境内に入りました。
参道脇には塔頭が並びます。
壽量院

(国指定文化財:客殿及び庫裏・棟門)
創建は平安時代。
後白河法皇が利用されたそうで
高い格式を誇ります。
十妙院

(国指定文化財 客殿及び庫裏・唐門)
こちらは
16歳の若さで亡くなった娘のために
赤松満祐(1381 – 1441)が託した寺院。
満祐は六代将軍足利義教に仕えた
幕府の重臣。
義教はくじ引きで将軍になりましたが
それでも一応デキるやつでした。
しかし周囲の人間を粛清しまくり
満祐も気が気ではなかったようで
そんな時
将軍の屋敷にいた満祐の娘が
義教の陰謀を知り
父親に警戒するように伝えます。
しかし義教にバレてしまい
娘は殺されます。
満祐は先手を打って
自宅の宴会に義教を招き
その場でめでたく(?)
将軍を暗殺しますが
2ヶ月後に自分が打ち取られました。
(これを嘉吉の乱という)
新年を迎える南天の赤い実の
かわいらしさと娘さんがリンクして
ちょっぴり切ないです。
そもそもこの時代カオスすぎ。
勘弁してくれ。
このあたりから道は下り坂
下りたところが中谷エリアの入り口
湯屋橋
かつて近くに沐浴所があったそう。

初詣の参拝客があふれてて
にぎやかでした。
みなさん火にあたりながら
甘酒で温まってて
こういうお正月感。良いですね。
そんな人々を見守るのは
摩尼殿

向唐破風造・本瓦葺・懸造 (国指定文化財)
圧巻!
昔ここに一本の桜の木がありました。
ある時そこで天女が舞っていたのを目撃した
性空上人は生えたままのその桜の木に
如意輪観音を彫刻して仮の堂を作ります。
後に仮堂と如意輪観音を中心にして
如意輪堂が建てられますが
それらは大正時代に焼失してしまいました。
現在のご本尊は
このオリジナルの如意輪観音と
同木同型の仏さまです。
羽柴秀吉が播磨を占領した時
圓教寺から長浜へ持ち出しており
後に返却されてご本尊として
祀られたそうです。
経緯がややこしいのですが
要するに秀吉が横領したせい(おかげ)で
焼失を免れたということですよね。
お堂は桜の木のあった場所に作られたので
このような懸造になったのですが

結構な高さで
こっちもこわかった💦
ここから山深い道を西へと進みます。
樹齢700年の杉の木を見上げて
深呼吸。


忘れてたけど
今朝までメンタル
ボコボコに凹んでいたんじゃなかった?
なんかどうでもよくなってきた。

西谷エリアに到着。
3つのお堂が迎えてくれます。

左 常行堂 室町時代 入母屋造・本瓦葺
中央 食堂 室町時代 一重二階・入母屋造・本瓦葺
右 大講堂 室町時代 入母屋造・本瓦葺
(国指定文化財)
大講堂
講義が行われる場
平安時代に参詣した花山法皇の勅願により建立
ご本尊は釈迦如来および両脇侍(文殊菩薩・普賢菩薩)
常行堂
常行三昧(修行)を行う場
ご本尊の阿弥陀如来の周りを
お経を唱えながらゆっくりと歩く。
食堂
僧侶の寝食の場
国内最大級の木造2階建
長さは40メートル(!)
深い木立を背景にして
広場を囲むようにお堂が並ぶ構図は
ビジュアル的に絵になるので
映画のロケに使われたそう。
ラスト・サムライ(2003年)
軍師官兵衛(2014)
関ヶ原(2017)
本能寺ホテル(2017)
ちなみに
「ラスト・サムライ」の撮影中
トム・クルーズは神戸のホテルに宿泊し
毎日専用ヘリコプターで
圓教寺に通っていたそうな。
スケールが違うね。

県指定文化財 宝形造・本瓦葺
隣には姫路藩藩主を務めた
本多家の墓所があり
その内部には
本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の
廟屋(たまや)が並んでいます。
(廟屋とは霊を安置する堂のこと)
本多といえば忠勝しか知らんなあ。
(藤岡弘、さんが演じてたし)
せっかくなので彼らのプロフィールを
調べてみました。
本多忠勝(平八郎)
忠政の父。生涯57戦。傷一つなし。
本多忠政 姫路藩4代藩主。
忠勝の長男。父とともに歴戦で活躍。
宮本武蔵は忠政に取り立てられ
嫡男忠刻(イケメンで有名)を指南した。
忠政は忠刻と千姫夫婦のため
姫路城に化粧櫓と住居御殿を築造したが
(優しいパパですね)
忠刻は家督を相続しないまま急死。
(そんな・・)
本多政朝 姫路藩5代藩主
忠政の次男。兄忠刻とその嫡子が
幼くして亡くなったため藩主の座に。
本多政長
政朝の長男。
6歳で父が亡くなったため
従兄の政勝が姫路藩6代藩主となり
政長は大和郡山藩2代藩主となる。
郡山藩の相続をめぐって政勝の子
政利によって毒殺される。
(そんな・・)
本多忠国 姫路藩15代藩主
忠政のひ孫。政長の養嗣子となり襲封
以上。
本多家も例にもれず
嫡子の早世やお家騒動に
翻弄されていて気の毒だ。
以下まったくの余談です。
この記事を書いている途中で
藤岡弘、の忠勝が見たくなり
ニコニコ動画「徳川さん」で
新年早々爆笑させていただきました。
さらに奥の院へ。
護法堂

隅木入春日造・檜皮葺
鳥居は石造の明神鳥居は江戸時代のもの。
(国指定重要文化財)
書寫山の鎮守です。
性空上人に仕えた乙天(不動尊の化身)と
若天(毘沙門天の化身)の二童子を
お祀りしています。
開山堂

宝形造・本瓦葺
(国指定重要文化財)
性空上人をまつる堂。
ここでは法灯を一千年にわたって
守り続けておられます。
あたりは誰もおらず
ただただ静寂のみ。
その中でコンコンという
乾いた音が響いていて
見上げてみると木の上に鳥。
キツツキ?
初めて聞いた。
ほんで初めて見た。
さて。
ロープウエイ駅まで戻ります。
ゆるやかな坂を下りながら
どうも忘れ物をしているような
気がしてきて。
そもそもの話
ここに最初にやってきたのは
スサノオだったのに
ここまでその話が出てない。
立ち止まって地図を確認。
摩尼殿の裏に小さな登山道があり
登りきったところに白山権現
つまりスサノオの降臨地がある。
ありゃりゃ。
仕方ないので下ってきた道を
引き返して登り始める。
が
立ち止まって考えた。
ここで突っ走るのが
これまでの悪いクセだった。
そんな人生だったのに
無事還暦まで生きさせてもらった。
ありがたい。
こうなったら文字通り生まれ変わり
強引な生き方をやめよ。と
スサノオノミコトと
性空上人が仰っている。
と勝手に解釈して
このまま帰路につくことにした。
そう。もう一度来たらよいだけ。
次回は東坂を歩いて登ろう。
そしてまっさきに白山権現にお参り。
御朱印帳も忘れずに持参だ。
下山したら播磨の奥座敷塩田温泉へ。
翌日は姫路城を見学して帰ろう。
などと帰りのバスの中で
欲望まみれのルートを
あれこれ考えながら
窓の外を見ると

白いサギがお見送り。
さすが姫路。ニクイね。
そして夢前川とくる。
紀貫之じゃないけど
うつつから夢に逃避行。
うとうとして目が覚めたら
そこは姫路駅でした。
