
ネットの友達は所詮ネットでの友達、それを恋というのでは
オフラインとオンラインの境目が曖昧になり、結婚相手でさえネットで決めることになった時代に、幻想に幻想を塗り固めては永遠を求めるなんて容易いのかもしれない。
2024年は過去捨ててきた趣味を引っ張り出しては、その趣味で駆け抜けた。衝動に駆られて「やりたい」を忠実に行なった。ネットでの継続的な関わりが重要で、初期の出会いでさえほとんどSNSでやり取りがなされるその趣味は、最初こそ辟易としていたが、慣例を知るようになると、自分のペースを少しずつ取り戻すように取り組むことができた。
感情であなたのことが好きですよと伝えてキャッキャとするコミュニティには、最初こそ疑問や気持ち悪さでさえ抱いていたが、私の中で当たり前となると、ただの作業のようにも見えた。心地よい上部の言葉を滑らして、自己実現ややりたいことを膨らませるのは馬鹿馬鹿しいと思っていたのに、いつのまにか当たり前に取り組むことができていた。
人気者になりたいと言う軸と、友達を作りたいという軸は相容れないことも、所詮まやかしに飛んで入る夏の虫だとわかっているのに、簡単に「すきです」「かっこいい」と吐くことにつっかえが感じていることを見て見ぬ振りをして、永遠なんて最初からないのに、「気が合う友達が欲しい、求めて欲しい、認めて欲しい」と言う本当の欲求に、カモフラージュした行為を私もその一人だったのだ。シュレディンガーの箱を開けずにいたら幸せになれたのに、ふとSNSのいいねが自分の勝ちや価値になるようなまやかしの魔法にかかっている。簡素な数字を見ると「私は何をやっているのか馬鹿馬鹿しい」と、自らこの趣味を通して得られる本当の報酬に希望を抱いていた事実を突きつけられ、呆気ないままごとだったと振り返る。そして、本当はこの趣味を通して永遠な友達が欲しいって気がついて、胸を抉られる。
趣味に没頭している時は無我夢中で、ただの単発消費に永遠を求めることさえせず、明らかに「今」を楽しんでいた。終わりがいつ来るかなんて知らずに、今を簡単に消費をしてか楽しんでいた。その時の「楽しい」は瞬時的なものなのに、まるで中毒になるかのように、現実と虚構の境目をうつろうことに夢中になっていた。
追いかけてはいけない。所詮趣味で、飽きては消える人もたくさんいる世界で何を私は期待していたのだろうか、「あなたのこと好きですよ」と吐いた人と趣味を通じて会う約束をしていたのに、連絡が途絶えてアカウントが消された寂しさをもっていた。会いたかったのは虚像なあなたなのか、会いたいと言われてスケジュール設定していたのに会えなくなった悔しさに執着しているのか、会ったこともないのに、一体私は何に執着しているのだろうか。幻想か、永遠なる友情に期待していたのか。
「共通の知り合いの違和感を感じて」と言われた時に、もう少し込み入って話を聞けばよかったのか、あえて気にしてないふりをしたのはいけなかったのか、と考えること自体良くないとは私はわかっている。所詮我々がやっていることは趣味なのだ、契約でも仕事でもないのに、なぜか交わした約束は確約と永遠を求める。
「どうせすぐ消費されていく趣味なんだから」と、目の前にまだ出会って7ヶ月しか経たない合間に9回会った人がお茶を啜りながら嘆いた。5回目ぐらいで「この人私と会いたくないのかな」と思うぐらいで、「私はリセット症候群だから」と相手は吐いて別れたというのに、また会っていた。私も会わないと決めたはずなのにきっと中毒なのだろう。
相手の本質さえ知らず、互いに気持ちいいとこを探って撫で合う、趣味を通じて行なっている出会い系の性行為となんら変わりないのではと、本心を隠したままの交流に気がつくとバカみたいだったなと振り返る。
この趣味は距離がおかしいから、出会った時がピークであとは緩やかに下降していく。高校時代や会社のように同じ共同体で苦楽を共にしているわけではない、互いの快楽だけを得る時間だからまやかしなのだ、少しでもネガティヴが見えると拒絶をする。
私は何に期待しているのか、所詮この趣味は表面的にはツールでしかなく、永遠なる友情がほしかったんだね、寂しい人