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犬よ、もうしばらくこの世界を楽しんで

共に暮らす老犬がいる。一時何も口にしなくなり、どんどんやせ細っていったものの、再びよく食べるようになった。これはその時期の出来事や私の感情を書き留めた備忘録だ。


犬、20歳


20歳の柴犬と暮らしている。性別はオス。毛色は赤毛だが、人間と同じなのだろうか年を経るにつれてどんどん白くなっている。

生後3ヶ月の頃にうちに来てから20年、特に大きな病気もしてこなかったが確実に老化は進んでいた。

目が見えないため物にぶつかることも多い。嗅覚も鈍くなり、目の前に差し出されたおやつに狙いを定めるのも難しくなった。耳はどれほど聞こえているのか分からない。歩くのも億劫そうで日長一日寝ている。

食事はというと四肢の踏ん張りが効かないので長い時間立っていられず、マットに寝そべった状態で食べている。それでもいつも残すことなく、ふやかしたカリカリ(もはやカリカリとした食感ではないが)の入ったお皿をきれいにしていたのだ。

そんな犬がある日、ご飯もおやつも食べなくなった。好物のパンやバナナを口に近づけても、そっぽを向く。それでもしつこく食べさせようとすると、余程嫌なのかよたよたと立ち上がって離れていってしまう。前日までは完食して空にしたお皿を「もっともらえないの?」と言わんばかりにぺろぺろと舐めていたのに、あまりにも急な変化だった。

気分次第で1〜2食食べないことならこれまでも何度かあったが、違ったのは丸一日ほとんど何も口にしなかったにもかかわらず、その夜中に吐きそうで吐けないような「からえずき」や少量の下痢を何度も繰り返したことだ。明らかな体調不良。無理に食べさせようとしたのがいけなかったのだろうかと悩みながら、その夜は一睡もできずに動物病院の開業時間を待った。

翌日、動物病院で診察を受け、点滴を打ってもらった。食べない原因もからずきや下痢の原因も分からずじまいだったが、できるだけ何かを食べさせるよう勧められた。
「食べなければ元気は出ませんから」と。

驚いたのは獣医さんが「ちょっと試しに」とキャットフードを皿に空けて犬の前に置いた途端、前日の嫌がり具合が嘘だったかのように犬がはぐはぐと食べ始めたことだ。思わず私が歓声を上げてしまうほどの勢いで。猫用のご飯の方が香りが強く、食欲をそそる(こともある)のだとか。

その帰り道、病院で犬が食いついたのと同じものを含めて数種類のキャットフードを買った。帰宅後すぐにあげた1缶目、鼻をひくつかせておいしいものが目の前にあることを認識した犬は、病院の時と同じように夢中で食べた。私もうまく口の中に入るようにスプーンを動かしながら、犬がおいしそうに食べてくれる様子に安堵した。

しかし、その夜も嘔吐と下痢を繰り返した。前日の晩同様、少量ずつ何回も。

それでもその小さな体にわずかでも栄養が吸収されることを願って、翌朝おそるおそる2缶目のキャットフードを差し出したが、ひと口も食べなかった。時間を置いて何度か食べさせてみようとするものの、結果は変わらない。結局2缶目は、翌々日のゴミの日に1度も口をつけないまま捨てることになった。

その後も食欲は戻らなかった。嘔吐や下痢の症状は少しずつ見られなくなっていったが、あまりにも何も食べないがゆえ、戻すものも出すものもなかっただけではないだろうか。目に見えて元気がなくなっていき、穏やかに寝ているというよりはぐったりとふせっているだけになるのにそう時間はかからなかった。

それでも1口でも食べてもらおうと試行錯誤を繰り返すうちに、同じものでも食べる時と食べない時があると分かった(とはいえ圧倒的に食べないことの方が多く、食べたとしてもごくわずかな量だったが)。その時々で変わる犬の食べたいものに対応すべく、常に4〜5種類の好物をペーストにしていつでも食べられるようにしておくことにした。

私はとにかく何かを口にしてほしい一心で、犬の好物を片っ端からミキサーでペースト状にしては口元に近づけた。もう噛む力や気力もなく、舌で舐めとるようにしか食べ物を口に運べないようだったから。ミキサーにかけるだけとはいえ、水を加えて舐めやすい固さになるように調整を繰り返すのには意外と時間がかかった。

バナナ、焼き芋、ささみ、いつも食べていたカリカリ、ささみや野菜をゼリーで固めた総合栄養食、その他。時期であれば好物のとうもろこしも試していただろう。どれも以前はガツガツと食べ、キラキラとした目でおかわりを要求してきたものたち。犬、好きな食べ物がたくさんあった。そのどれもに見向きもしないどころか、顔を背けることがほとんどになった。

次第に下痢や嘔吐がなくなっていき、犬がごくわずかでも食べ物を口にすることが人間をほんの少しだけ安心させていたが、1日の食事量はその生命を維持し続けるには明らかに足りなかった。私は「このままずっと食べなかったら……」という考えをミキサーの音でかき消すようにペーストを作ってはミキサーを洗い、また別のペーストを作るという作業を繰り返した。数日後にはそのほとんどが生ゴミに変わっていったけれど。

減退したままの食欲をなんとかできないかと、点滴を打ってもらうためにほぼ1日おきに家から20分ほどの距離にある動物病院に車を走らせた。
「食べなければ元気にはなりません」
言葉は同じだったが、日に日に諦めの気配が濃くなっていく獣医さんの声色にうつむくしかなかった。

20歳なのだ。人間で言うと100歳くらい。
「本当は食べたくもないほど体が辛いのに、さらに点滴で針を刺されなければいけないなんて」
と思っているかもしれない。車に揺られるのも好きではないし、動物病院に通うのもしんどいはずだ。

今、生きていること、呼吸をしていること自体が辛いのかもしれない。

そう思うと「食べさせる」という選択が正しいのか、犬にとっていいことなのか、分からなかった。ただ、元気になってほしい、生きていてほしいという人間のエゴのようにも思えた。

血液検査もした。貧血気味で肝機能が少し衰えているようだが、どちらも今回の不調の原因だと決定づけるほどに基準から外れた数値ではないとのこと。人間が検査結果を聞いている間、これまで病気らしい病気をしてこず、元気なあまり元気ということも意識してこなかった犬は、点滴を受けながら力なく診察台にふせっていた。

いつかは人間よりも先に行ってしまう。分かってはいたけれど悲しくなるのはどうしようもなかった。

食べなくなる前は10.5kgだった犬の体重は、たった10日で9kgにまで減ってしまった。
9÷10.5=0.86(四捨五入)
自分の体重に0.86をかけてみると、絶対に10日間でそうはならないだろうというような、あまりにも低い数字が出てきた。

毎日犬を抱えて体重計に乗り、その値から自分の体重を引いては犬の体重を出す。日に日に軽くなり、目に見えて痩せて骨ばっていく犬に「食べないの?9キロになっちゃったよ、食べないと」と泣きながら声をかけたりもした。体重や見た目と比例して残りの命も減っていくように感じ、犬を抱える度にその温かさが今日にでも消えてしまうのではないかと恐れていた。

私といえば、人生の半分以上を共に過ごしてきた犬がいなくなるかもしれない悲しさで、泣き暮らしていた。あまりに泣くと頭痛がする体質なのだが、あの頃はいつも頭痛がしていたように思う。

他にも友達と遊ぶ予定を立てることをためらうようになった。もしその日、遊んでいる間に犬に何かあったら?私が何をしていても犬の変化を止められはしないのだけど、明らかにぐったりとしている犬を置いて楽しむことはできそうになかった。

また、万が一約束の日の前に犬が旅立ってしまったら、私はきっとその予定をキャンセルしてしまうのだろうと思った。だったら最初から何も入れない方がいい。

分かってはいたけれど、犬がいなくなる未来を案じて予定を入れないのは、そうなる未来を確実なものにしているような気がして、散々悩んだ末に遊ぶ予定を1つだけ入れた。そんな未来に抗うために。なんの憂いもなく出かけられることを願いながら。

私が手当たり次第に食材をミキサーをかける一方、同居する家族も犬が食べられそうなものを色々と買ってきてくれた。いつもとは違う種類のゼリー状の総合栄養食、また気が向いたら食べてくれることを願ってのキャットフード、ささみ、果物、好きだったおやつ。食べにくそうな形や固さのものはやはりミキサーでペーストにした。

食べてもらえずに大半を捨てることになると分かりながらも、私は1日何種類もの食材をミキサーにかけ、家族は出かけるたびにペットコーナーやどこかに立ち寄っては次々と犬のための食べ物を選んできた。

決して手をかければかけるほど、おいしいものを与えれば与えるほど、長生きするわけではないのは分かっている。それでも犬の老化が顕著になってきたここ数年は特に
「この世界にはこんなにいいものがあるんだよ。だからもう少し長生きして、この世界を楽しもうよ」
と思いながら一緒に暮らしてきた。今回もこの世界に犬を引き留めるような何かを、家族全員が探していた。

そんなある日、買い物から帰ってきた家族から渡されたずっしりとした袋の中に、「Wanチュール」があった。 犬用のペースト状のおやつ。存在は知っていたけれど、買ったことのないものだった。

「これ食べてみない?」そう犬に話しかけ、自分の手のひらにチュールを少しつけて差し出してみた。犬はこれまで出されたことのない新しいペーストの匂いをしばらく嗅ぎ、ぺろぺろと舌先でつついたかと思えば、べろべろとすごい勢いで舐めはじめた。私の手についたチュールを余すことなく舐めとろうと鼻を押し付けてくる。あっという間に1本目を食べ終え、2本目や3本目も同じような勢いで舐めつくした。

チュールの威力は次の日もその次の日も、何回食べても衰えなかった。キャットフードはたった2回でその魔法が解けてしまったというのに。ようやく安定して口にしてくれるものに辿り着いたのだと、喜んで追加のチュールを買いに行った。

そこから犬の食欲は徐々に回復し、食事の量や状態も少しずつ元通りになっていった。まずミキサーでペースト状にした少量のカリカリの上にチュールをかけて差し出すと、顔を背けることなく舐めるようになった。徐々にチュールを減らしてカリカリの量を増やしていくのと並行して、最初はペーストにしていたカリカリの粒を次第に粗くしていくと、最終的にはチュールなしでも、食べなくなる前のごはんと全く同じふやかしただけのカリカリをガツガツと食べるようになった。

今ではすっかり元の食欲や食事形態に戻った。犬は食べ物の匂いを察知すると寝ていたマットから顔を上げ、期待のこもった目で人間を見つめてくる。あれほど顔を背けていたバナナや焼き芋もおいしそうにペロリと平らげる。食べている途中で「おなかいっぱい」と口をつけなくなることはあるが、最初から顔を背けることはもうない。

どれも柔らかくしてはあるが、ペースト状にはしていない状態のものだ。食べ方も舌で舐めとるようにではなく、しっかりと口を開いて口の中に食べ物を入れ、よく噛んで食べられるようになった。

お腹が空いたと吠え、前以上の量を食べることもある。吐き気や下痢もなく、食べることを存分に楽しめているようだ。皿の中のカリカリやその大袋の中身が順調に減っていくのがこんなにも嬉しいものだとは。

そういえば食欲が戻ってからはキャットフードをあげる機会がなかったので、今度買ってこようと思う。喜んでくれるだろうか。

元の食事を摂れるようになった今でも、チュールは家に常備していて、おやつとしてあげている。やはり一際喜んで食べる。チュールが老犬をこの世界に引き止めたというのは大袈裟かもしれないけれど、食欲が戻るきっかけとなったのは確かだ。

結局不調の原因は分からずじまいだったが、治ったということになるだろう。犬の体重は今、9.7kgまで戻ってきている。

今日、私は友達と遊びに行く。なんの不安や気後れもなく「ちょっと出かけてくるね」と犬に声をかけて、遊ぶことを全力で楽しむために家を出るのだ。今朝も犬はよく食べ、穏やかに寝ている。

犬、もうしばらくこの世界を楽しんでほしい。



※ちゅーるのPR案件でもいなば食品の関係者でもありません

【追記】2024年8月、21歳で永眠しました。この世界を楽しみきってくれただろうか。

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