心をひらいて、サインを受け取る ─ 森のリトリートで得られた気づき
2023年のゴールデンウィークは、北海道の洞爺湖にて森のリトリートに参加した。3泊4日、寝食含めたほとんどの時間を森で過ごし、一切のデジタル機器から離れる。リトリートとデジタルデトックスを兼ね備えたディープな森生活。
森での3日間は、自分自身と、そして大地とのつながりを実感する日々であった。大いなる流れに身を任せると、目の前には起きるべきことが起きる。あとから自分で意味づけをしている部分もあるにせよ、いい体験だった。記憶だけでなく、記録にも残しておきたいという衝動があるので、森での体験が自分に関してどのような気づきをもたらしたのか、書き記しておきたいと思う。
自分らしくいるために、複数の拠点を持つ
「もっとも自立した状態とは、複数の依存先を持つことである」というのは、私のポリシーの一つだ。自分が安心できる場所、頼れる場所がたった一つだけな場合、それが崩れ去ったとき非常に心許ない。だから私は常にいくつかの依存先を分散して持つことを大事にしているし、私の大切な人にもそのような場所があるといいと願っている。
なぜこの話を書いたのかというと、森でも同じ感覚を抱いたからである。プログラムのなかでは、森の広い敷地内で「自分の居場所」つまり自分が寝る場所、テントを張る場所を直感で決めてください、というお題が出た。
他の動植物それぞれの居場所があって、天候の変化が激しい森のなかでは、自分が心地よいと思う場所を定めるのはことさら重要な任務であるように思えた。でも、難しい。ここかな?と思っても、すぐに小さな違和感を見つけてしまう。他の参加者が続々と自分の居場所を見つけていくなか、私は根無草のようにふわふわしていた。
しばらくして多少の妥協もありながら、いいかもと思えるスポットを見つけ、なんとか自分のテントを立てることができた。しかしそれから2日間、寝る時以外は「自分の居場所」から離れた場所で、お気に入りのスポットを行き来することになった。それでいい、と同時に思った。安心して帰れる場所と、インスピレーションをもらう場所、冒険に繰り出せる場所。それぞれの居場所があっていい。この一連のプロセスで、自分の特性を肯定できた感覚があった。
書くことは、欠かせない浄化活動
居場所を探す過程で、神社の境内を思い浮かべるような、爽やかな風を感じる場所を見つけた。ひときわ濃い緑に囲まれ、小川が流れ、フキやゼンマイがそこらじゅうに生い茂るエリア。
しばらくそこに居座ると、自分の「表現欲」がむくむくと出てきた。私は、文章を書きたい。いま自分が見ている美しい世界を外に出していきたい。書く仕事をするという職業的な営み以上に、ただ書きたかった。書くことは、浄化に似ている。そしてこの浄化のプロセスを怠りつづけると、自分のなかにドロドロとした何かが溜まってしまうことにも気がついた。
「クリエイティブ・スペース」と勝手に名付けたこの場所は、私の創造への意欲を湧き立たせてくれた。私が書きたいと思えることを、思い出させてくれた。場の力ってすごい。
開放の物語を紡ぎたい
じゃあ、どんなことを書きたいのか。まだふわっとしているが、そのヒントは突如現れた。この森のリトリートのセッションでは、計3回瞑想のセッションがあった。初回はあまり集中できず、2回目は気持ちいいひだまりの中で爆睡(笑)。でも最後の瞑想中、「開放」のイメージがわずかに湧いた。
先ほど「浄化」と書いたが、それは内にとどまっている自分の想いや感情を開放するプロセスであるのだと思う。それに加えて、自分が書く文章に関わる人(例えばインタビューをする人、読んでくれる人)がみずからの可能性や想いを開放する場をつくりたいと強く願う。
私もそうだが、「私の限界はこんなもんだ」「私にはふさわしくない」と知らず知らずのうちに自分の声で自分を締め付けてしまっていることが多い。実際私も森で「こんな生活できない! 真っ暗な森で寝るなんて怖い!」と何度か目の前に起こるできごとをシャットアウトしそうになった。それでも恐る恐るやってみると意外となんとかなったり、想像もしていない景色をみれたりする。そして、喜びになる。この美しいプロセスに、文章というツールを通して関わりたいのだ。
森のリトリートを通して、あらためて自分の特性を知ったり、表現したいことやまた表現の先に作り出したい未来に目を向けることができた。森のようなアンコントローラブルな場の力は、時々すごい引力を持って、私たちの潜在意識を引き出す。たった3日間だったけれど、自分が立つ位置を理解するいい機会だった。