「死」のない世界で、私たちは
この世に「死」がなくなったら。
私たちの何が変わり、何が変わらないのだろうか。
昨日、私は「親鸞とインターネット」というイベントに参加しました。神谷町にある「光明寺」というお寺に50名。高校生から60代近くまで、幅広い年齢層で、職種もバラバラ。ただしお坊さん多め。不思議な空間のイベントの中、初めて顔を合わせた人たちと「未来の宗教」について話し合いました。
まず「親鸞とインターネット」って
「親鸞」と「インターネット」という異質な組み合わせが、刺さる人にぐさっと刺さったに違いない。私もその一人。
インターネットなんて私たちの世代にとっては当たり前の存在で、スマホを通じて常時繋がっていることが普通。私は「スマホ疲れ」みたいなものは少ない方だから、多分人より「苦」なく長時間インターネットと向き合っていると思う。加えて大学では情報通信学科に所属し、プログラミングや通信の世界を学ぶ身としても生活している。
何が言いたいかというと、私にとってそんなにインターネットってそこまで特別なものではないってこと。
でも、インターネットが陳腐なものだとは思っていない。インターネットは本当にすごいと思っている。可能性や新たな使い道はまだたくさん秘めていると思う。だから、私たちデジタルネイティブとか言われる世代にとって「マリオの"スター"がぴょんぴょん跳ねているステージ」がスタート地点だったんだと思う。
そういえばこんなツイートしてた。
この文章の意図は「正直である方が、トクをする感覚」を伝えたかった。現実世界でもそうだけど、見栄を張りすぎたり、飾りすぎると、ボロが出るし、疲れちゃうから。カミサマがいる湖って特別な感じがするけど、そんな湖が当たり前にそこにあった、という感覚、かな。
「宗教」ってなに?
「家入さんと松本先生の対談」→「参加者同士のディスカッション」という流れでイベントは行われた。
ディスカッションの時間は7~8人のグループに別れて「未来の宗教」というテーマで話し合っていった。私のいたグループには日蓮宗のお坊さんがいた。彼が「未来の宗教」を考えるに当たって、私たちに最初の質問を投げかけてくれた。
「宗教ってそもそもどんなイメージですか?」
そして私たちは思い思いに答えてみた。(覚えている限りを書いてみます)
・宗教って、日本ではカルトと混同されている
世界的に見たら宗教を信仰していない人の方が少なくて、他国での宗教はカルトと思わないのに、自国の宗教は混同している人が多いと思う。
・宗教は「同じビジョン」に向かわせるための共同体
だからよく、会社でもみんなが同じ目的のために熱くなっているのを見ると「宗教っぽい」って形容されるよね。
・宗教は死を敬うもの
死んだあとの遺体はただの肉の塊で、蔑ろにされるのでは「死ぬこと」がますます嫌になるから。
・宗教は今を生きるためのヒント
今ってとっても生きづらい世の中。だけどそれって昔もそうだったのかも。カオスなこの世界で生きるために何か支えとなってくれるもの。
・日本で「宗教」がなくなっても、それほどダメージがない
他国に比べて「宗教」がなくなったとしても大丈夫って思っている人が多いと思う。
宗教に対する考え方は人それぞれ。私個人としては、どの意見も概ね、世間一般の宗教に対するイメージから外れないものだと思った。
「死」の定義
上であげられた「宗教とは」の意見のうち、私のグループが特に取り上げたのは「死」についてだった。
度々思うのだが、私たちは本当に幸福なことに、未来に対して様々な想像ができる環境で生きている。「今日を生きていけたことが奇跡」みたいな、そんな環境だって同時刻に地球のどこがで起きているのに。
「死ぬって何だろう」とゆっくりと時間をかけて考えることができるのは、幸福なことなんだと思う。
さて、そう遠くない未来で「死ぬことの意味合いが変わっていくのではないか?」という疑問があがった。
「心臓が動かなくなったら死なのか」
「誰かの記憶から消えてしまったら、死なのか」
「身体は生きていても、脳死の状態はどうなのか」
各宗教で「死」の在り方は違う。そういった宗教観の死とは別に、目まぐるしく発展していくテクノロジーで変化していくであろう死について、今回考えさせられたことがあった。
「死」とテクノロジー
「将来肉体が死んでも、意識や記憶は残されて肉体をロボットが代替する日がくるのではないか」
SFの世界ではすでに表現されている世界だと思う。実際、記憶のデジタル化の研究やサービス化は進められている。
このサービスについての賛否両論はおいておく。私は「死」にしろ「生」にしろ、「人間という生き物」にしろ、本質を見ていたら、少なくとも今の技術的には「人間の意識のみの生存」は不可能だと思っている。
だけど、私の一つの事実として知っていることに「人間が想像できることは創造できる」がある。だから、今SF映画で描かれている世界はきっと実現可能なんだと思う。
ここでイベントのテーマに立ち返って考えてみた。
再びこのツイート。私はさらに、家入さんのインターネットの定義から、一つの「死」に対する認識の要素である「記憶の継承」を捉えてみた。
インターネットによって「記憶や思想の継承」が民主化されるのだろう。
「記憶や思想の継承」は、もう何千年も前からすでに行われている。ある特定の、歴史上の人物の日記や随筆、自伝は一つの記憶の継承だろう。それを読んだ現代の人の心に「格言」や「教訓」として残ったり、ということはずっと前から起こっている。
書物としてではなく、絵や写真、映像、多分音楽もそうだ。表現することによって、自分の分身箱のようなものが作られている。楽しかった記憶は写真に保存される。思いをのせて、メロディーや歌詞をつくる。フィルムの中で生き続けている俳優女優がいる。映像を通して、メッセージを訴え続けることができる。
「一億総表現社会」なんて言われる今、誰もが表現者、アーティストになれる世界になった。私がこうやってnoteを書き、それを読んでくれる人がいるということもそう。それぞれの何気ないTwitter、Instagram、Facebookの投稿だってそう。
「あれ?」と思った。
私は、「一億総表現社会」はインターネットで「表現の民主化」が行われ、誰もが「生きている今」を楽しく幸せに生きることができるようになったんだと思っていた。
表現することが「記憶や意識の継承」に繋がることは、なんとなく分かってはいたけど、忘れていた。
表現するという作業はどうやら…
「死」と「生」に大きく関わってきそうだ。
まず一つの結論はやっぱり、インターネットによって「記憶や意識の継承は民主化される」ということだ。
今まである特定の、偉大なことを成し遂げた人物しか、天才的な科学者しか、人気アーティストしか、美貌をもつ女優さんしか、されていなかったことが、インターネットにより民主化されるのだろう。ここでも、私たち個人に権利が返されていく。
人間の「苦」はなくなるか
ここで話は「死を克服したあと」の想像に移る。「不死の世界の実現が可能か不可能か」の話はおいておく。
私たちのグループでは不死の世界が訪れたとしても「ストレス(=仏教的には『苦』)」はなくならないだろうという意見が多かった。私もそう思った。
「今の社会って生きづらい」とよく言われるけれど、その「生きづらい」理由が「死ぬことが怖いから」という人は少数だろう。日々の日常生活の人間関係の不和や、無理感や、無希望に対して「生きづらい」という人が多いのだと思う。
「生きづらい」の理由は、国や地域、時代、情勢によってそれぞれなんだろう。
松本先生のこの言葉が印象的だった。
結局、「死」という宗教的に大きなテーマを克服したとしても、宗教ってなくならないのだと思う。
すみません、とりあえずテスト勉強してきます
イベントに参加してから、私の中の「TO DO」ならぬ「TO THINK」が増えてしまった。
・「表現」と「死」
人はなぜ、表現しようとするのか
・「死」を克服したあとの宗教
死は克服できる未来がありそうだ。じゃあ私たちが克服するのが難しいのは「ストレス」か
・そもそも私の中の「死の定義」は何か
あ、今一瞬、自分がクリスチャンであること忘れてた。(あはは私の神様、ごめんね)etc
文章も雑多だけど、書かずにいられなかった。書かずにテスト勉強なんてできなかった(言い訳?)。ちょっと今日は「信号処理」と「通信理論」の勉強してきます。テスト終わったら、この文章更新しようかな。うん。
今度一緒に考えてくれる方、声かけてください。
あ、家入さんのnoteで全文公開している本「さよならインターネット-まもなく消えるその「輪郭」について」を読んで、インターネットについても話しましょう。インターネットのその先の話をしましょう。
お父さんにもリンク送ったから、2月に帰省したとき感想聞くつもり。楽しみ。
テスト勉強しなきゃ!!!