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自己遊泳

しばしば、人生は航海に喩えられる。

 泳ぎ方を学びつつ海を知るのが難しいように、人生に没頭していると人生を見つめなおすのは難しい。
(Kurzgesagt – In a Nutshell「What Are You Doing With Your Life? The Tail End」冒頭部分より)

「人生という海を渡るのであれば、海図ではなく羅針盤を持とう」とはよく聞くフレーズだ。

人生という海は自分のものなのかもしれないが、現実の海はみんなのものだし、誰のものでもない。

人生という海の全貌を見られる者はおらず、また人類は未だ10%も海図を描けていない。

航海士は月明かりを喜び、星を頼りに前に進む。私たちは変わらないものにひどく安心する。しかし、なんて人生という海には、変わらないものが見当たらないのだろう。

自分の生きる人生が広い海だとすれば、自分自身は深い海だと思う。

時々私はイメージする。頭の天辺から足の爪の先まで、巡る血潮の隅々を、小さな私が泳ぎ回り、自分の幸せの法則を探している。

時々私はイメージする。刺激的なものに触れて血圧が上がり、心臓から溢れ出る血液の中を、小さな私が脳に向かって泳いでいる。

私は生きていくうちに、快と不快を覚えて、なるべく「快」を選択するようになった。その「快」が刺激的ならば海は波がたつし、その「快」が平穏ならば凪が訪れる。

深海に太陽の光が届かないように、自分自身の最も深いところは暗く、何も見えないような気がする。

深く潜れば潜るほど苦しくて、耐えられない。
深く潜るためには、それなりの経験と装備、そして誰かの助けが必要だ。

人生という海を泳ぐとき、また自分自身という海に潜るとき、それが没頭していればいるほど、海の美しさに気づくことは難しい。

没頭することは素晴らしい。
でも、たとえ、あなたが(私が)泳ぐことに没頭していなかったとしても、2つの海を眺める良い機会なのかもしれない。

時化のときと、凪のとき、その両方があることを、その中間のときが数多にあることを、知る機会なのかもしれない。

しばしば、人生は航海に喩えられる。
神さまの手帳にのみ、その海図が載っている。

"あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。"
コロサイ人への手紙 4章6節 聖書 新改訳©2003

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