人生の不法投棄
2024年の2月からひとり暮らしをはじめた。
そこで改めて思う、生活ってなんだろう。
端的に言えば生きる活動…そう考えると、私たちの生活は思っているよりも必要以上の義務や常識に縛られている気がする。
前からミニマリズムの考え方に関心があったけれど、そこも突き詰めれば生きていく上で自分に必要なものってなんだろうという問に集約されていく。
生活のあれこれだって、必要最低限にしたらきっともっと簡素だと思う。
でも簡素にすることはできるけども、そこに哲学が伴っていないときっと継続することは難しい。
だから、ひと口にミニマリズムといっても、人の数だけのミニマリズムがある気がしている。
ある人にとっては必要ないことでも、私にとっては必要不可欠だったりすることもあるわけで、その必要不可欠な部分をかき集めるときっと私の哲学になるのでは無いかと思う。
それが個性と呼ばれるものでもあり、ある種のこだわりと呼ばれるものでもある。
おりに触れて想起するのは、大昔の人達はどう生活していたんだろうということ。
時代が変われば「常識」や「普通」は変化するわけで、今当たり前に私たちがおこなっていることも、昔の人からみたら奇妙奇天烈かもしれない。
たとえば毎日風呂に入ることが常識のようなこの時代だが、大昔はそれこそそんな設備などもないわけで…となるとその時点で同じ常識を持ち合わせることは不可能である。
私のミニマリズム=私の哲学を見つけること、これが今の私の使命なのかなあ。
正直最近「生きること」に無気力である。思考を放棄していると言ってもいい。
たぶん放棄しないと生きていけないから放棄している。もはや人生の不法投棄である。
でも心のどこかではわかっていて、ずっと燻っているからタチが悪い。
いまの仕事だって「休みは取れるし人はいいから」って思ってるけど、このままでいいのか?かといって転職…というのもなんだかそこまで踏み切れない。
最近は非常に斬れ味の悪い私である。
仕事ひとつとっても生活に集約される。結局生きるために働くという点で、生活の大半を占めているのだからそりゃそうだという感じだが。
今の仕事の不満点は、私の苦手なこと、やりたくないことをやっている点にある。福利厚生・待遇面については文句は無い。人間関係も個人的にみれば良好だ。
でもきっとこの不満は異動しても解消しない気がする。
なぜなら毎年3月になると辞めたい病が再発するからだ。3月は人事異動があり、否が応でも環境が変わる時期なので、たとえばその1年はよかったとしても次年度も良い環境で働けるとは限らない。
正直ここに5年いて思うことは、毎年環境が変わりすぎて不安定すぎるということだ。
訳の分からない配置換えが多すぎるし、現場の声を無視した人事異動なのでどこかで無理が生じる。
その埋め合わせをするのは結局仕事を回せる職員なので、まあそりゃ面倒なことに巻き込まれがちなのも頷ける。
人生一度きりなのだから、燻ってるくらいならスパッと辞めてしまうのも一つの手だと思う。
なんか、私の人生これでええんか?って感じ。
まわりに振り回されてばかりで、本当はもっと大切なことに時間を使うべきでは無いのか?常に自問自答して、でも首をフルフルと横にふって、人生を不法投棄している。
不法投棄した先になにがあるのか…おそらく自分の人生を不法投棄したペナルティがいつかきっと回ってくる。
だから、どうにか、忙しさを理由にして見て見ぬふりをしないで、どうにか向き合っていきたいけれど、どうしたら、どう動いたら進みたい所へすすめるんだろう。
私はどこにいるんだろう。