くだらなさのデザイン ⇑くだらないエッセイ⇑
日本の伝統芸能である落語に『あくび指南』という演目がある。ある男が友人を誘って、あくびの師匠に “あくびの仕方” を習いに行くという実にくだらない噺なのだが、この噺の作者は、いったいどのようにしてこんなくだらないアイデアを思い付いてしまったのか、私はそれが知りたい。
そもそも、くだらない事とはどのようにくだらないのか。つまり、くだらない事というのはどのようなデザイン(構造)なのか。このような『くだらないエッセイ』を書く事に何か意味があるのか、と考えながらこの文章を書いている。
あくびの師匠で思い出したが、実は、私の本業は講師である。そう、人前で偉そうに講釈を垂れる、あの講師なのだ。企業などに出向いて研修をしたり、商工会や経済団体の会合でセミナーをしている。
人になにかを「教える」というのは、教える側は「実に重大なことを教えている」つもりだが、教わる側は「実にくだらない」と思っている。このことは、私の研修やセミナーの受講者数がどんどん減少しているという長年の実績が証明している。これは私の話の内容がどうこうというのではなく、「教える」という行為が、物事を知っている者が知らない者に対して知識を伝達するという、上から下へと流れるデザイン(構造)だからだ。つまり、「教える」というのは、教える側から見ると「下るもの」であり、教わる側から見るとその反対の「下らないもの」になるという理屈だ。
少し話は変わるが、このnoteにはたくさんの物書きがいる。その中でも小説を書く人たちのお悩みとして、ストーリーは思い浮かぶが、綺麗にオチを着けることが出来ないというのがある。
小説を書くのも、講義をするのも、基本的には同じようなデザイン(構造)なのだ。特別に、私が講義で実践しているストーリーテリング法をお教えしよう。確実にオチを着けることが出来る方法なので、心して読んでほしい。
要領はこうだ。
講義と同じように、小説のストーリーがどんなにくだらなくても、書き手は「実に重大なことを書いている」つもりになりきり、どちらかといえば上から目線になってみる。マウントを取るのと同じ要領だ。しかし、あからさまにマウント姿勢を取るのはよくない。
「みなさん、ご存じだとは思いますが…」
「みなさんのような優秀な方たちに、あらためて言うことでもありませんが…」
というふうに、私の場合はあくまでも下手に出ておく。そうしないと研修後のアンケートに、「講師の態度が悪かった」と書かれてしまう恐れがあるからだ。
そして先ほどの「教える」構造を利用して、ストーリーを上から下へ下へ下へと流してみる。そうすると最後には自然にストンと「落ちる」。それが自然の摂理というものだ。もし「落ちない」という人がいるとすれば、その人は何か不自然な行為をしているのではないかと考えられる。自慢するわけではないが、私の場合はいつも自然体だから、私の講義の受講者は最後にかならず眠りに「落ちる」。