日本料理の料理人がエチオピアで料理を作るまで ~①~
今晩わ。
あまのシェフです。
年明けの1日にアフリカからの初めての初日の出写真をのせてから
だいぶ時間が経ってしまいました。
特別にする事が沢山あったわけでは無いのですが
色々と考える事が多くなってきてしまい、
note生活は沢山の方々の記事を読ませていただく時間が増えました。
改めて読ませていただく内に読み応えのある面白いお話しが沢山あるなぁって思いました。
そんな中でnoteさんの募集記事で#はたらくってなんだろう という言葉が目にとまり
自分にとっての仕事とは何だろう?という疑問と向き合う時間が出てきました。
料理人にとってのはたらくとは単純に美味しい料理を作ってこられたお客様に喜んでいただく事だと思います。
自分が和食の料理人になろうと思ったのは和食が好きで美味しい胡麻豆腐との出会いがきっかけで
こう言う料理を作れる人になりたいと思ったからです。
海外の水は日本と違い硬水のため出来上がりが柔らかくなるように昆布出汁の割合を多めにしています。
今となっては様々な場所で料理を作れる幸運に恵まれていますが
最初から料理人になりたいとは思っていませんでした。
手先がとても不器用でノロマで頭の悪い自分が料理人さんになんかなれないと本気で思っていました。
料理の世界に触れたのは偶然で家の前にうどん屋さんがあって、
家庭の事情で単純にアルバイトしてお金が欲しいと思ったからです。
当時高校生だった自分は本当はアルバイトが禁止の学校に通っていましたが
恩師の特別の計らいで内緒で許してもらっていました。
今思い出すとリスクのある事をお願いしてしまい申し訳なかったなと感じています。
もちろん恩師とは折あるごとにお会いして今では父親の様に尊敬しています。
何処の国に行っても手紙を送ったりしていて恩師も一時の再会を心待ちにしてくれているようです。
エチオピアに行く前にもお時間をいただいて山梨に帰ってきたら本でも書いてあげようと言ってくれたのは本当に嬉しい限りです。
山梨に帰ろうと思っている一番の理由。
今まで自分が経験してきた国の料理を恩師に味わっていただきたい。
そのことだけが僕の今の原動力になっています。
今でも、これからもズッと残っていて欲しい僕の原点のお店です。
高校生のアルバイト感覚で仕事をしていた人間が大阪の割烹料理屋さんで働くことになりとても厳しい修業時代を送るのは大変でした。
毎日朝から夜遅くまで仕事をして定休日の月曜日も仕込みに出ていました。
不器用で包丁も使えないような素人だったので休みの日は朝から近所の魚屋さんに行って魚を捌く練習をさせてもらっていました。
もちろんいきなり魚を触れる事は無くて最初は惣菜のパックをラップで包む作業から始まり徐々に魚の構造を教えてもらうといった感じでした。
和食の料理人は魚を綺麗に捌くのが仕事。
魚屋さんは数をこなさなければならないので雑になりがちな環境にいて
魚を捌くのが下手くそ!!と言われていたのが残念に思う苦い思い出です。
今はそんなことはないですが。笑
様々な経験を積ませていただき料理の事を沢山教わったかけがえのない師匠との出会いも大切にしていきたいです。
チリでの仕事を終えてからエチオピアに行く事になった時も報告させていただくと
海外の仕事の方が楽か?? と聞かれました。
そんな質問されるとは思っていなかったので一瞬ドキッとしましたが
ある意味海外の方が仕事が楽だと思いますが大変な部分もあります。
といった曖昧な返事になってしまいました。
実際に大阪での修業時代というのは人に話せるものではなくて
いつも辞めたいと思っていましたし、師匠に何度もお願いしていました。
どうしても我慢できない理不尽な先輩との軋轢の中で何故?と思うことが沢山あって、手も足も罵声もあるような職場環境で逃げ出したいと思っていたし、結果として逃げてしまった時もありました。
今となってはそういう過酷な状況で頑張ってこれたのが一つの自信になっていますが逃げてしまった事があるのが自分にとっての負い目にあり
これからの人生は決して逃げないと心に誓っています。
大阪での修業時代のエピソードや師匠の特別な言葉など
まだまだ書きたい事はありますがそれはまた別の機会に。
次回は海外に出てからのことを振り返っていきたいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。