嫌いという感情が観測されない訳①


こんばんは。なんなんです。
普段は、心理学を専攻している学生ですが、春の休みに様々な思想(主に現代思想)に触れることができました。
そこでまだまだ浅い私の知識ではありますが、哲学的な方法論、つまり思考法が日常の現象においてどのような枠組みを与え、説明可能なものとして引っ張る力があるのか気になるところです。

ふと思ったのですが、私には嫌いという感情があまり芽生えることがありません。嫌いという感情が芽生えないのであれば、どのような状態として嫌いを捉えているのかが気になりました。

というのも、本来嫌いという言葉は好き-嫌いの二項対立によって定義づけることが可能だと考えられます。

しかし、私の場合好きという言葉に対立するものが、存在しえないのではと…。
私の場合と限定しましたが、哲学的に説明することである程度の普遍性をこの現象にもたらすことができるのではないかという試みでもあります。

言語的に存在し得ないとはつまるところ、言語的に定義できなく、もやがかかった状態であるということです。

また、仮に存在したとしても、それは嫌いという感情ではなく、言葉としてとらえられない何かになるのではと。

今回は、この言語化できない何かに対して、何らかの枠組みを与えて概念化し、整理することを目的とします。

ここで着目したいのは、言語化できなくなるということ、ですがただ抑圧しているかと言われればそれもまた違う気がするのです。

そもそも、好きとはどのような状態であるか考える必要があります。そうでなければ相対するものとしての嫌いや、私が考える存在しないということに到達しないからです。

ここでいう、好きとはその事物が存在していることを積極的に受け入れる態度と仮固定したいです。

私たちは世界を認識するときに存在そのものを絶対的な真実として認識することができません。

つまり、存在を認識するときそれは心によって解釈され、存在を認識することになります。

この場合、存在に対する態度は解釈によってその都度変更されます。

言語的に内在化されグラデーションを持つその態度は時によって、好きという言葉によって片付けられることがあります。

一つ断っておきたいこととして、グラデーションをもつはずの態度がいかにも一様であるかのように固定するのか必要があるのかという問題です。

実社会においては、私たちは自由なものとして認識することができます。

実存主義的な考え方を引用すれば、不安という言葉に先立つのが自由であると。

つまり、自由が前提であるからこそ、それに働きかける主体があって、それを喪失することを危惧するからこその不安があるのだと。

ここで着目したいのは不安が一時的でありながら相対的に定義づけられていること。

これを利用して、好きを定義づけるのなら不安という感情がラベリングされ言葉として存在できるならば、好きという状態も言葉として定義づけることがでる。

不安が存在するのは、自由が先駆的に存在するからである。この枠組みを好きに与える場合、先駆的に好きの前に何かがこなければ、好きを規定することができない。

以上から、好きの前提になる状況を考えなければなりません。ゲシュタルト心理学の「地と図」という考え方を利用する。
私が着目したいのは、目の前に起きる現象は地にも図にもなり得るということだ。つまり、人間は積極的に目の前の現象を選択できる余地があると解釈できる。

これにより、好きというものの前提には積極的に事物、現象に対して枠組みを与えることができるいう作用が働いていることが判る。

不安が自由(積極的に事物、現象に対しての枠組みを与える作用)を喪失することだとすれば、逆に好きとは(積極的に事物、現象に対しての枠組みを与える作用)の獲得の一つではないかと考える。

ここで注意したいのは、完全に不安との対立に好きが存在するのではないということだ。

この作用に対しても我々は解釈を加える。入れ子構造的であり、解釈に解釈を加えるとも表現できる。

まとめると、好きとは(積極的に事物、現象に対しての枠組みを与える作用)の一つある。

また、積極的に事物、現象に対しての枠組みを与える作用の結果に対して、解釈を加え、それに対して好意を持っている状態。

つまりは、積極的に事物、現象に対しての枠組みを与える作用の結果に足して積極的に受け入れたことを拒まない態度であるといえる。

長くなってしまったので次回に続きまわします。

追記
やはり、論理を展開するのは難しく穴があると私自身感じます。。。

拙い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

愛すべき読者の皆様へ、雨が降る田舎町より。


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