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教養は強要されるものなのか。

最近買って、かなりのハイペースで読んでいる本がある。
「教養の書」
著者は、戸田山和久先生。

戸田山先生は、「科学哲学の冒険」という本を読んで知った。
文章構成があえてフランクにされていて、友達やちょっぴり先輩とカフェでしゃべっているような感覚に陥る。

この「教養の書」なのだが、実はまだ読んでいる途中だ。
「え、読み終えてないのにこの本ベースでnote書くの?
それ、曲解を生まない?」
という声がなんとなく、聞こえてきそう。
そんな方は、ちょっと僕のある種の言い訳を聞いてくれ。
浅い理由がちゃんとあるんだ。

どこまで読んだかの話をしよう。
第Ⅰチャプターを読んで、第Ⅱチャプターのちょうど中間あたりに僕はいる。
なので、このnoteでは第Ⅰチャプターを踏まえて書いていきたいと思う。
そして、ここからが苦しい言い訳タイムだ。
僕は、割と”自分の外”に依存するタイプだ。
自分の思考や趣向を発酵させる時間もとても重要視しているが、なるべく自分の意見や考えは”自分の外”に発信しようとしている。(noteのアカウントを所持してこの記事を書いていることで察してくれ)
なぜか。
シンプルだ。
自分をあまり信用しないようにしているからだ。
この本の内容に通ずるかもしれないが、僕ら人間はそこまで賢くない。
だって、夏休みの宿題は8月27日あたりまで膨大な量をため込むし、「セイコウシャになるために、引き寄せの法則を使うぞ。よし、毎晩寝る前に10分夢を唱えよう。」などと思う節があるし。

ちょっとこれ以上書くと、明日から僕のSNSライフが肩身苦しくなりそうだから、対象をヒトというスケールではなく、
ぼくに戻す。
合理的にリスクを避けながら、生きれるほど僕は賢くもないし、それを賢いとも思えないほど僕はアホだ。
そんな僕を、僕は信用しないようにしている。
なので、僕は自分の考えたことを誰かに共有したがり、意見を聞きたがる。
今回のnoteも、途中経過ではあるが同じようなものだ。
ほんのちょっとお付き合いいただきたい。

それじゃ、本題に入ろう。

教養は強要されるものではないが、それによる影響というのは、、、

チャプターⅠでなんと、
「教養とは」という問いに答えが出てしまいました。
言葉の定義など見方によって変動するものなど一旦ケリつけちゃって、実装の話をしようよという意図なのか
もしくは、著者が抱えていたビッグテーマが意外にも小さくまとめられちゃったことに焦り、チャプターⅠにもってきて、本を買ってもらう戦法にしたのか
ここら辺は定かではないが、割りあっさりと「教養とは」の問いの答えが書かれていました。

ネタバレなどというレベルの話ではないと思うので、最後のまとめの部分を抜粋してみる

「我々にとっての教養とは”社会の担い手であることを自覚し、公共圏における議論を通じて、未来へ向けて社会を改善し存続させようとする存在”であるために必要な素養・能力(市民的器量)であり、
また、己に「規矩」を課すことによってそうした素養・能力を持つ人格へと自己形成するための過程も意味する」

「教養の書・戸田山和久 第7章」

ここでの素養・能力には、以下のものが含まれるという。

①大きな座標系に位置づけられ、互いに関連付けられた豊かな知識。既存の知識を絶対視はしない健全な懐疑
②より大きな価値基準に照らして自己を相対化し、必要があれば自分の意見を変えることを厭わない闊達さ。公共圏と私生活圏のバランスをとる柔軟性。
③答えの見つからない状態に対する耐性。見通しのきかない中でも、少しでもよい方向に社会を変化させることができると信じ、その方向に向かって①②を用いて努力し続けるしたたかな楽天性とコミットメント

「教養の書・戸田山和久 第7章」

「規矩(きく)」とは、自分の行動を規制する基準 というような言葉らしい。
まあ、ルーティンとかもある種の規矩なのかな。

ここがすごい重要かつ、個人的に共感したのが、
戸田山先生は、全てのヒトがこういう人になれるとも、なりたがるとも思えないという風に記している。
しかし、少数でもいいからこういう人々は人類のために必要だ。とも記している。

大事な点は、
教養は完成系ではなく、進行形の一面も表しているということ。
要は、教養というのは社会において重要だから、みんなも一歩踏み出そうよという本になっている。
戸田山先生の視座が高く、しかも僕のようなアホに寄り添うようなテキストで書かれているこの本は割りと良い本なんじゃないかと思う。
このまま読み進めていきたいと思っている。


これらを踏まえて感じたことが2つある。
1つは、教養というものを身に着ける過程に身を置くというのは、かなり自分を苦しめるのではないかということ。
もう1つは、現代において教養の過程を歩むものは、いつかは還元しないといけない”社会”とやらにうんざりして、スターウォーズのアナキン・スカイウォーカーみたく闇落ちするのではないかということ。

1つ目の、感じた点については、チャプターⅡから戸田山先生が書かれているので、これから読んでいきたいと思う。(現時点、共感ポイントが貯まりすぎてすごい)
2つ目について、少し書いていきたい。

戸田山先生のいう教養にもあるのですが、
より社会の改善を促すという点で、
闇落ちするようなやつは結局教養がないのだというようにも受け取ることが出来てしまうと個人的に思っている。
しかし、アナキン・スカイウォーカーがジェダイに対して抱いた疑心というのは、特別なものではなく、割と誰しもが抱くものなのではないかと思う。

多分僕の抱いた疑問とそれにまつわる議論というのは、昔からあるものだ。
要するに、「教養」というなんだか実態の掴みづらい言葉を用いて、社会といういつ出来上がったかわからないようなシステムにとって優良な人材を当てはめていくようなニュアンスを僕は感じ取ってしまった。

多分、これは僕個人が抱いたものであって、戸田山先生はそんな意図は全く含めていないし、
こういう僕みたいなめんどくさいアホの意見も予測したうえで書いているので、戸田山先生にとっては面倒な仕事となるだけなのだが。

そういう意味で言うと、教養を強要するというのにもジレンマがあるよなと思う。


しかしだ。
だからといって、教養教育というようなものをしなかったらどうなるのだろうか。
なんとなくイメージしやすいのが、ドナルド・トランプ政権のような政治組織だろう。
(実態はどうなのか詳しくリサーチしていないが、自分なりに一般値というのを予測してみた)
自国主義で、自分のとこ以外には割と距離を取るし、都合のいい関係しか結びません的な。
公共圏(世界)<私生活圏

でもだ、個人的には、
公共圏というのものよく整理できていない。
これは僕がまだ若く、0ベース志向かつ破壊思想への謎の興味があるだからなのだろう。
なので、皆さんは僕みたいなやつに石を投げまくって自分を肯定してあげてください。でないと、あいでんてぃてぃーというのを保てないですからね。


そろそろ、このnoteの着地点を決めよう。
個人的には、上述したような悶々とした感覚を得てしまった。
ただのスターウォーズオタクだから仕方ないのか。
ぜひ、みなさんも「教養とは」
関連して、「社会とは」という漠然とした疑問を自分に持ち帰ってみてください。
最後に、「教養の書」戸田山和久著
ぜひ読んでみてください。


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