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運用と手順23(「塔」2021年12月)

皆様いかがお過ごしですか。
「現代詩手帳」二〇二一年十月号は「定型と/の自由」というテーマで、久しぶりの短詩形特集であった。(前回が二〇一〇年六月号、黒瀬珂瀾の編による「ゼロ年代の短歌100選」を読み返すと感慨深い)
コンテンツとしては、佐藤文香・山田航・佐藤雄一による三詩形座談会「俳句・短歌の十年とこれから」や、藪内亮輔「多様化するリアリズムと、その先」など、最近の状況を概説するような記事が、各人の歴史観が浮き彫りになって興味深かった。藪内の論考を引く。

近代短歌以降、作者=作中主体という読みがスタンダードとなった。塚本邦雄・岡井隆・寺山修司らの前衛短歌が導入した虚構・思想表現により、それが絶対でないことは実証されたが、それでも私小説的に自己の感情を詠嘆することはスタンダードであり続けた。近代的な主体の成立への信頼は、現在まで確実に続いている。

これは前提共有として必要な部分。近代的な主体の成立への信頼=リアリズム的な読みのコード、と補足して理解した。リアリズム志向に対する新しい潮流として藪内は、「言葉派」を提示する。

誰がなんと言おうと私はこうだ(ヒロイズム)、私には何も変えられないから言葉にして悼む(祈り)、これは他者への関わりによる相互変化を、ある意味で諦めるということだ。笹井を端緒として、服部、井上、平岡直子など、ヒロイズムまたは祈りを感じさせる、言葉の信奉者的な歌人が出始めている。しかし「言葉派」への批評がうまく追いついていないのが現状で、短歌は早急に(各世代の歌人を巻き込む形で)批評のコンセンサスを構築すべきだ。リアリズム的な読みというコードしかないことは、短歌における大問題である。

ヒロイズムも祈りもある種の言葉に対する信仰態度である、という視点は面白い。藪内は、「現代短歌」二〇二一年九月号「Anthology of 60 Tanka Poets born after 1990」の大森静佳との対談「このアンソロジーの読みをめぐって」でも、ヒロイズム/祈りについて同様のトピックで議論を展開している。

祈りとかヒロイズムとかっていうのもそうで、相手との関係性を放棄して、祈りに行く、もしくは、相手の言うことを聞かずにむちゃくちゃ言う方向に行く、という点では、同一の性質を表しているとも言えますね。ライトに詠っています、みたいな歌が氾濫しているなかで、そういう人たちは、他者との関係性を構築していく積極的なところがないのかなという印象を持っています。(藪内)

「言葉派」の作風は相手との関係性を放棄している、他者に対して積極的でない、とまで言ってしまえるのかは少し疑問が残る。厳密に言うと現代短歌の議論は詩手帖の論考とは若干対象がずれるのだけれども、先に挙げられた服部、井上、平岡、一連の議論の中で出てきた山中千瀬、川野芽生のいずれにしても、修辞としては内向的というより積極的に他者への関係性を切り結ぼうとしているようにも見える。あるいは祈りという行為、については、むしろ他者に対する積極的なコミットメントではないか、と思うのだけれども、この感想も個人的な信仰の域を出ないのでひとまず置いておく。作中の他者への開かれ方と読者への開かれ方の解釈の違いと言えるのかもしれない。

「言葉派」については、これまでの用法で言うと「人生派」、私小説的に自己の感情を詠嘆するスタンダードな詠み筋、の暫定的な対立項として使われることが多い(逆に言うと、風呂敷が大きすぎて明確な対象のある議論には向かない)印象があった。
「反=人生派」を「言葉派」と位置付けてしまうのはいささか乱暴ではないのか、と思うのだけれど、若手の中でも明確にアンチ人生派=言葉派、を志向する言説も出てきている。先の藪内の区分でも言葉派に挙げられていた、井上法子のエッセイが分かりやすい。

半年間、浴びるようにうたの世界の書物を手にして強く感じたのは、どうしてうたの世界のひとびとは、こんなにもおのれをかたりたがるのだろう?という疑問でした。手に取ったもののほとんどが「自分史」のようで、そうでないものは、そうでない、ということを、ことさらに強調せねばならないような状況に、はて、とおもったのです。(略)
なぜかしら、うたの世界は、つどう機会が多く設けられています。私はどうしても、発話がこわい。生身においてなされるそれが、肉の声が、世界を、作品やことばそのものを、侵しているように思えてならないときがあります。
ことばだけの透明な存在になりたいのです。これは甘えでしょうか。贅沢な望みでしょうか。

井上法子「たましいのディメンションについて」「短歌」二〇二〇年一一月号

文中では「うたの世界のひとびと」の慣習によって作中主体が作者に無造作に紐づけられてしまうことへの疑義が繰り返されている。末尾の「ことばだけの透明な存在になりたい」という一節は、自作を作者の背景や個人情報と切り離した、言葉だけの独立した存在として読まれたい、という意図を「ことさらに強調せねばならないような状況」を皮肉にも再現している。
「短歌」二〇二一年一月号の江戸雪による時評「誰にも邪魔されない世界」では、同時期に井上の寄稿した「ビッグイシュー」第394号、「ねむらない樹」五号も合わせ、直近の井上の言説を俯瞰したうえでこう述べる。

ただ、歌のなかの言葉は肉にはよらない純粋な「たましいの」言葉なのだろうか。私は、自分から発せられる言葉は、生活の上でも書くうえでも、肉である自分が侵食してくるような恐れが常にある。侵食してくる〈生身のわたしの気配〉から解き放たれたいとおもうし、つきまとってくる自意識に飽き飽きとしている。
だから、井上法子の禁欲的ともいえる論説は、今度こそ、短歌を、自分の手が届かない詩形にしてくれるような気がしている。手が届かない、だからこそそれは輝きを持つ。私はそしてそれに近づこうと、生ぬるい技法や馴れ合いを捨てることができるかもしれない。

江戸雪「誰にも邪魔されない世界」「短歌」二〇二一年一月号

生身のわたし、自意識から解き放たれたい、という感覚はもしかすると多くの作者の実感としてあるのかもしれない。
井上の言説は、作者としてのストイックな矜持であると同時に、読者への反=人生派であるという「読み筋の指示」とも言える。読者は作者ほど禁欲的な存在ではないので、常に禁欲的な作者の望まない読解、作者の実人生と作品を紐づけるような、をしてしまう。
作者のスタンスとして繰り返し「反=人生派」であることを自ら明示することでしか、言葉だけの独立した存在になり得ない(あるいは、「ことばだけの透明な存在である」と作者が自らの属性を宣言することによって読者がその作品を「言葉派」として読むようになる)としたら、それはそれで不毛というか、うたのことばとはまた別のところでたましいを使役してしまうのではないだろうか。

「人生派」「言葉派」の二分についてもう少し考える。短歌の作者は、その作品が実人生に紐づいていようといまいと、作品の制作者としての作者性からは逃れることができない。制作物の由来が人生であれたましいであれ、作品は作者のものであり、逆に言えば、作者自身の出自などの個人情報とは関係なく、作品によってのみ、作者の作者性は保障されるべきと言えるかもしれない。しかしながら、実際のところは作者名によって作品の作者性が保証されている状況が圧倒的に多いのではないだろうか。先の繰り返しになるが、読者としてのうたの世界のひとびとは、作者としてのうたの世界のひとびとほどはストイックな存在ではないからだ。

「人生派」「言葉派」の分類は、作者の側ではなく、読者の側の分類として考えたほうが分かりやすいのかもしれない。
例えば、歌会においては多くの人は「言葉派」であると言える。特に無記名の歌会において、作品から作者像を逆算し、立ち上げたイメージによって歌中に書かれていないことまで想像を広げ、評をするのはマナー違反とされる。される、と言ったが私の経験の範囲なので、すべての歌会一般においてそうなのかはちょっと分からないけれども。書かれていないこと以外を読まない、という感覚は、私の観測範囲(主に関東圏の学生短歌や非結社系のオープン歌会)では割と一般的な気がするが、これは参加者が比較的流動的なタイプの歌会において、ハラスメントなどの問題を避けるために自衛として定着したマナーと言える。(それは、例えば会社の同僚であってもプライベートには必要以上に踏み込まない、といった、あくまで社交上のマナーであってルールではないとこれまでは思っていたが、最近の歌会ではガイドラインとして明文化する流れもある。明文化しなければならない、というのは、それだけ場の運営においてセンシティブで重要な要件であることの証左とも言える。)
いま挙げたのは、短歌の中でも歌会という極めて限られたフィールドの、さらに一部の場の性質ではあるが、参加者同士の過干渉をあらかじめ避けようとするスタンスと、例えば先述の詩手帖の評で藪内の指摘するところの「自分の考えを押し付けない流れは二〇一〇年代の新人の中でかなり強くなった印象だ」「永井らの文体が切り開いた部分もあるが、個人主義の行き着いた社会の空気感もある。」といったニュアンスは重なる部分もあるのかもしれない。
藪内はそこにある種のもどかしさを感じているようだが、仕方のない部分も大きいのではないか。
読者としては目の前のテキスト以上のことに踏み込まない。
作者としては、場にとって読みの共有できそうな部分だけ差し出しあう。
という一見消極的な態度は、短歌のコミュニティに伝統的に持ち込まれがちな無根拠な同一性に期待しない、わたしたちが互いに他者であることを前提としたコミュニケーションのありようとしては至極真っ当だろう。
ある種の世代的な消極性は、潔癖さともつながる。「短歌」二〇一九年十月号。睦月都は五島諭『緑の祠』を嚆矢として伊舎堂仁、鈴木ちはね、相田奈緒、谷川由里子といった歌人の作品を取り上げ「抑止する修辞、増幅しない歌」について展開する。

長い歴史の中で培われてきた短歌のインデックスを利用することもなく、言葉に必要以上の感情を乗せることもない。そこにあるのはシンプルな定型だ。かれらは潔癖ともいえるほどにていねいに言葉を削ぎ落とし、安易なポエジーを躱す。これらの行為は短歌の所与性、ハイコンテクスト性、あらゆる「短歌的なもの」を照らし、問い直しているように思う。

睦月都「抑止する修辞、増幅しない歌」「短歌」二〇一九年十月号

これを踏まえて。川野芽生は「現代短歌」二〇二〇年五月号の連載「幻象録」の中で、乾遥香「夢のあとさき」(第三回笹井宏之賞受賞作)におけるリフレインの多用とその効果について言及する。

ではどうしてそこまで一首の解釈の可能性をコントロールしようとするのだろう。その問いに対して、「読者を信用していない」という答えが思いうかぶ。もう少し正確に言うと、「解釈共同体を信用していない」ということになるだろう。
短い字数で多くのことを表現しようとすれば、解釈共同体に共有される読みのコードを最大限に利用することが求められる。読者のある種の「常識」に訴えて、書かれていない情報を補完してもらうやり方である。そうすれば説明に字数を割く必要はなく、その分詩的飛躍を作り出すことに注力できる。
それは便利ではあるけれど、マイノリティの排除にもつながる。〈君〉〈あな
た〉と書けば相聞歌と読まれ、であるならモノアモリーでヘテロセクシュアル・ヘテロロマンティックな関係と想定されることは、そういう恋愛を描きたいひとにはアドバンテージだが、そうではない恋愛を描きたいひとや、恋愛以外の関係性を描きたいひとには不利になる。マイノリティの排除、と言ったけれど、ひとには多かれ少なかれマイノリティ的な部分があって、共同体的な読みをするときひとはどこかで共同体から外れた自分に見ぬふりをすることになる。つまり短歌の解釈の共同体は、人間の均一視の上に成り立っており、いうなればそこには欺瞞がある。

川野芽生「幻象録」「現代短歌」二〇二〇年五月号

さらにもう一つ。これらを受けた論として「短歌」二〇二一年九月号の東郷雄二による時評「「くびれ」と「ずん胴」」を引く。

川野の言うように、二〇〇〇年代のリアル系歌人が「解釈共同体を信用していない」かどうかは疑問の余地があるが、信用しないまでも必要としていないことは明らかである。そのちがいはカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)のちがいに喩えることができるかもしれない。旧教では教皇が神の代理人で、教会という共同体を通して信者は神とつながるが、新教はそれを否定し、一人一人の信者が直接に神とつながるとする。結社や歌会として表れる解釈共同体は、旧教の教皇や教会と同じように信者と神の媒介として働く。リアル系若手歌人の多くは結社に所属せず、一人で歌と向き合う。〈私〉と神とが直接につながるように、〈私〉と歌の間に媒介を必要としない直接的な回路があるかのようだ。その回路はある意味で歌の純度を担保する役割を果たすかもしれない。しかしその一方で、媒介を拒否する態度は、短歌から座の文芸としての性格を奪うことはまちがいない。その結果として、彼ら・彼女らの歌が、成層圏の群青の空に向かって放たれる孤独な叫びとならないだろうかという一抹の危惧を拭い去ることができないのである。

http://petalismos.net/tanka/tanka-column/column20.html
東郷雄二のウェブサイト「橄欖追放」転載分から引用。

東郷は、座の文芸としての短歌の危機を予見しているが、個人的にはその点については楽観視している。実際に私は、解釈共同体をあまり信用していないけれども、解釈共同体が不要だとは思わない。解釈共同体がある種のステロタイプな読み筋に収束してしまいがちなのも、世代間の意識の差も含めて致し方ない、だからこそ異を唱え、問題提起をし続けなければいけない、とも思っている。

所詮、読者としてのわたしたちは、自分の想像力の範疇でしか共感やリアリティを語れないことを、私は歌会で、紙面で、新人賞の選考で、否応なく体感させられていて、それでも各々は、分かりあえないことを前提に、それぞれのやり方で旗を掲げながら短歌に薄く関わっていくしかないのではないか。別に積極的にコミットしなくても、いくつかの作者と作品は多く言及され、引用されていくうち世代や属性の代表歌となり、勝手に共同体に寄与していくだろう。実際の場の運用や手順とは別の次元の話だけれども。

〇○〇○

「塔」2021年12月号掲載分から。
https://toutankakai.com/magazine/post/13137/
結社HPでは引用がくずれたままなのでその辺を構成し直して転載しました。

これ以降は二〇二三年の文章です。
当時こういう話があったんだよ、っていうのは忘れ去られて、用語だけ独り歩きする…のは仕方ないとして。digれるところに過去の資料を置いておくのも必要な作業かもしれないな、と最近は考えるようになりました。

「言葉派」の定義とはまた違う話。もう少し広い「アンチ人生読み」みたいなスタンスは、主に上の世代、結社の歌会とか、作中主体と作者が不可分なところ、に対する反発として一定層に共有されていた(と思っていた)んだけど、最近あんまり声高に言われなくなった気がします。
商業的に、またはコミュニティ内部で評価されることによって、あるいはSNS的な場所ではそもそも、歌人/クリエイターとしてのペルソナで振る舞えるから実人生を背負わなくてもよくなった、みたいな部分もあるんじゃないかな。
そもそもカウンターとして機能していたはずの、アンチ人生、のポジション自体が場の変質と経験値の累積によってゆるやかに解体されていった。
だから敢えて言うなら短歌ブームの結果として、一定世代より下は<良い意味で>私性に対する屈託がない。
私性の扱いに屈託がない分、短詩型の「コスパが良い」部分を十全に享受できるというメリットがある。

その屈託のない私性は、<アンチ人生>としてのお前が死ぬほど口語こねこねしながら否定したかった人生=プリミティブな私性への回帰ではないの?って疑義があるんだけど、それは最終的には自分にも跳ね返ってくるから言語化するのしんどいんだよね。

わたしたちをずっと苛んできた「きっと何者にもなれないお前たち」なんて実はどこにもいなかったんだよ。という話はまたそのうちやります。

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