斉藤斎藤歌集『渡辺のわたし』『人の道、死ぬと町』について
吉田恭大
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それが架空であれ実在であれ、市の中の人々の営み、という俯瞰で示されるスケール、の遥か手前に私たちの生活はあり、私たちは大抵の場合半径五メートルくらいの視野で汲々と暮らしている。
ひとりひとりの半径五メートルの世界を丁寧に描写していくことが、短歌形式の優れたメゾットの一つである、というのはここで言い切ってしまっていいだろう。老人であっても下女であっても、高利貸や廃嫡された若者でも、誰のものでも生活は尊い。加えて言えば、勤労や納税は生活ほどは尊くない。
本稿では、斉藤斎藤の第一歌集『渡辺のわたし』および第二歌集『人の道、死ぬと町』について、主に作中の他者の在り方からアプローチすることをひとまずの目的とする。
個人の生活における半径五メートルのかけがえのなさと、社会の中での人間そのものの「かけがえのなく無さ」は、物語としては何かと対置して扱われがちだが、実際のところ生活も社会も対立することなく、グロテスクに連続している。短歌の暫定的な分類でいえば、生活詠と社会詠に明確な区別はなく、広い意味での社会詠として機能するものと、狭い意味での社会詠として提示されたものがあるに過ぎない。
と、社会詠について相田奈緒がクリアにまとめている。
少し強引ではあるが、斎藤作品をこれを当てはめて考えるならば、『渡辺のわたし』は(A)その社会を背景に詠む歌の方法論、『人の道、死ぬと町』については(B)その社会について直接的に、具体的な事象について詠む歌の方法論が立ち上げられていると言えよう。順を追って読んでゆく。
『渡辺のわたし』、は個人の代替可能性について、あるいは話者としての「わたし」や作中の対象(例えば「君」や「あなた」)の不確定さについて、繰り返し言及する。阿波野巧也は新装版の解説において先の二首を挙げ、その特徴を纏めている。
わたし、や、あなた、といった人称について、自己言及的に詠んだ歌。さらに『渡辺のわたし』という歌集名そのものからも、短歌の私性、一人称システムに対しての抵抗を読み取ることができるかもしれない。
私性に対する抵抗。短歌における一人称の前提は、何らかのレトリックで能動的に抗わない限り、おおよその歌を作中主体、話者のモノローグに落とし込んでしまう。そして、能動的に抗わない限り、モノローグは作中主体と作者を積極的に混同させる。
レトリックとしての抗い方、たとえば一首単位での人称の入れ替え。
思い返せば、
にまつわる一連の議論は、結局のところそれが短歌であることによって補完された、一人称=作者という運用をするかどうか、という読者側のポジションを巡る話であった。(この一首をを巡る議論については中島裕介「『解釈』にもとめられる(べき)一貫性」/短歌往来二〇一九年五月号)に詳しい。
瀬戸夏子はイラク攻撃の歌を引きつつ、
短歌定型をヴィークル=乗り物に例えたうえで、読者はそこに乗ることで作者の「情」を再体験する、という短歌のオーソドックスな一人称の読み筋と、それから逸脱するものとして斉藤の歌を対置している。
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『渡辺のわたし』では一首単位で機能していた一人称への抗いが、『人の道、死ぬと町』では複数の他者の発話を引用した膨大な詞書として連作単位で投入されている。
「今だから、宅間守」、「人体の不思議展(ver4.1)」、「ここはシベリアのように寒いね」、いずれも詞書を含め周辺情報の多い連作である。連作ごとに情報量の多い空間が展開されるが、書割的に描写される登場人物も含め、読み進むのに必要な要素はきちんと読者の前に揃えられている。
それから震災以降の連作と、二〇一五年に発表された、二〇〇九年の笹井宏之の死についての長大な連作「棺、「棺」」。震災以降の連作群では、他者を詠む、とりわけ他者の死を詠む、ことへの後ろめたさについて、斉藤は繰り返し言及する。
『渡辺のわたし』で一首単位で提示された私の交換可能性が、『人の道、死ぬと町』では「当事者」という言葉、逆説的な交換不可能性となって再び読者の前に現れる。一人用のヴィークルに何人もの人間を載せて、でもそれは作者の「情」の再現ではないのだ。ますます読者はどこに乗ればいいか戸惑うが、それでも運転手は斉藤斎藤一人だろう。
美術家・大岩雄典は斉藤作品の「他者へのなり替われなさ」について、以下のように述べている。
作者のみならず、読者にとってもまた、作中の話者と一致すること、憑依することはできない。しかしわたしたちは「すこし想像しえる」。この有限の想像力への期待は、むしろ作者としての全能感とは程遠いものだ。
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まだ死んでいない作者によって差し出された人の死を、同じくまだ死んでいない側にいる読者としてのわたしはどう受け取ることができるか。
倫理的主体は、何を描くか、何を引用するか、と同時に、何を書かないか、によっても規定される。
大辻の言う倫理的主体、は作中の主体、話者としての私たちを統べている存在として考えることができるだろうか。多くの他者を取り込んだ作品の中で、作者は、話者の一人として作中に紛れると同時に、「他者の声を再構成することに対する全責任を負う主体」、どちらかといえば舞台芸術の演出家に近い存在として立ち振る舞う。
作者によって倫理的に構築された連作において、作中の人間への単純な共感や感傷以外の回路で作品を受け取るためには。少なくとも、『人の道、死ぬと町』に関して言うならば、私のために作品があなたを蕩尽すること、の後ろめたさを忘れてはならないと思う。
読者としてのわたしは、わたしはあなたではない、そしてあなたはわたしではない、という自明をあらためて思い出しながら、差し出された、誰かのいた痕跡に向けて、臆病に手を伸ばすしかないのではないだろうか。
(ねむらない樹 vol.5掲載『メラーニアから―斉藤斎藤についての私論』より改稿)