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言葉が発せられるとき―橘上『 NO TEXT』

 二〇二三年一月に刊行されたいぬのせなか座叢書5『TEXT BY NO TEXT』は、橘上のパフォーマンス『NO TEXT』の公演を引き受けて制作された四冊の本から構成されている。起点となる二〇一八年の『NO TEXT』公演のテキスト起こしをメインとした、『NO TEXT Dub』(企画のナンバリングとしては4)、そのサンプリング的な側面が強い、橘上による詩集『SUPREME has come』(同1)、さらにTOLTAの山田亮太による詩集『XT Note』(同3)、引用を踏まえつつ、多少距離のある位置にモメラスの松村翔子による、岸田國士戯曲賞候補作にもなった戯曲『渇求』(同2)があり、全ての装釘・レイアウトをいぬのせなか座の山本浩貴+hが手掛けている。

 筆者は二〇一八年に上演された『NO TEXT』に、制作運営として参加していた。公演の時点でテキスト化する計画については聞いていたが、その後の書籍としての制作プロセスについては関わっていなかった。その後、四年以上の月日を経て完成した『TEXT BY NO TEXT』を手に取って、ようやくこの企画の全貌を知ることができた。ここでは成果物としての書籍の手前、二〇一八年時点での、パフォーマンスとしての『NO TEXT』を少し振り返ってみたい。

 二〇一八年の『NO TEXT』は一時間程度のパフォーマンスと、その後のアフタートークで構成され、いずれも北千住のアートスペースBUoYを会場に開催された。舞台芸術、特に「演劇」と「演芸」に対して、どう差異化を図りつつ、集客的にアプローチできるか、というのが開催前の課題であった。

 朗読を、声を含む身体表現として考えたとき、詩人や歌人による自作朗読は七割方が面白くない、と当時は考えていて、今でもだいたい五割くらいが面白くないと思っている。
 技術的な巧拙はもちろん個人差があるが、詩人の朗読は、その上手さが「作者本人が読む」こと自体の魅力を上回ることがほとんど無いからだ。それを超えるには、場数を踏んで自分の朗読技術を自らの作品に最適化させるか、最初から音声に乗せることを前提に作品が制作する必要がある。そしてそれは上手くなればなるほど、詩(テキスト)の巧拙ではなくて演出(パフォーマンス)の技術の問題になる。『NO TEXT』の初期過程においては、橘上自身の「上演技術としての素人性」が一つの前提になっていたことは間違いない。

 では詩の朗読とは何か/テキストをただ読んでいるだけである。/それも書いた人が書いたものを読むという極めて素朴なありようだ/書くも読むも声を発することも誰しもがやることである/舞台に立つのは演技の専門家の俳優でもなければ、笑いの専門家の芸人 でもなく、声の専門家の声優でもない。/ただの人だ。/しかしその素朴なありようはありとあらゆる言葉と接続されうる可能性を秘めている。/日常会話、モノローグ、思索、思いつき、言葉遊び、常識、懐疑、/ありとあらゆる専門家も元をただせば、ただの人だ /ただの人がただ声を出す。ただの人に。/今ここで生まれた言葉をいまここで発す

(橘上「NO TEXT宣言」/『NO TEXT Dub』)

 実際に上演を目の当たりにしてみると、確かに『NO TEXT』で行われていたのは、あくまでリアルタイムでのテキストの生成であった。

  麦茶こんな感じだったかなぁ……時間たったからかなぁ。毎日、3日前に作った麦茶毎日ちょっとづつ飲んでるから何て言うかな、3日前に作った麦茶だから味が変わっているという先入観でそう思ってるのか、ちょっとづつ味は変わっているのを微細に感じているのか、真逆だよね、微細に味を感じているのか先入観でそう思っているのか真逆のことなんだけど麦茶ってこんな味だったかなぁ?思いだ…麦茶の味をどうやったら思い出せるのかな?あの初日の麦茶の味を…どうやって思い出しゃいいんだろう?いや経験してるんだよ、例えば、(後略)

(橘上「(初日の麦)茶の味」/『NO TEXT Dub』)

 思考が口から出てきて、推敲の代わりにその場でフレーズの反復と変奏が繰り返される。センテンスの長さが呼吸の長さによって徐々に規定されることで、確かにこれは今ここで喋りながら考え、考えながら喋っているのだと分かる。そしてそれが観客として理解できた瞬間に、テキストの生成される現場に立ち会っている、という緊張と興奮がもたらされる。個人的にはこのかすかな緊張感こそが『NO TEXT』の醍醐味であった。客席からただひたすら喋り続ける人間を見届けるというのは不思議な感覚で、生成される情報量の割にフリースタイルラップのような反射神経も落語のような磨かれた話術もそこには存在しない。

 ラッパーや芸人でなくとも、例えば教育や観光業などの現場において、職能として反復され、磨かれた闊達な話芸を持つ人間は大勢いる。先に言及した「場数を踏んで自分の朗読を自らの作品に最適化させ」た詩人の朗読についても、そのような野生の話芸の延長線上に捉えることができるだろう。しかし『NO TEXT』のパフォーマンスは、恐ろしいことに何度上演を重ねても、そのような洗練とは遠いものに思われた。上演に際しては舞台上の身体の強度や技術は必要とされず、むしろ人前で延々話し続けられるという橘上の属人的な能力が否応なく目立っていた。『即興朗読』という形式の上演に対して技術的な上達も演出的な意図もなるべく排除したい、という橘上のスタンスは、それはそれでストイックな態度であるといえる。

 観客がどう思ったかはともかく、人間が目の前で喋り続けるだけで(そして時折中断して水を飲むだけで)上演は成立していた。特に『SUPREME has come』と『NO TEXT Dub』を比べると、橘上の推敲の過程を辿ることができる。いずれにしても上演の際の饒舌さと、テキストとしての饒舌さが観客/読者にとって変わらずそこにあることは、詩集の形で証明されている。

(初出:「現代詩手帳」2023年6月号)


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