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君はまだ、人前でそんなにも泣くことができるんだな

9月21日(土)

彼女の誕生日お祝いランチの予定なのに、今日に限って人身事故で電車が止まっていた。遅刻を覚悟して連絡したが、30分くらい経ってぎりぎり間に合うくらいのタイミングで電車は動き出したので、その電車に乗り込む。

当然車内は身動きできないほどぎゅうぎゅう詰めで、向こう側のドア近くに母親と3人の子どもが立っている。子どもは下の子がベビーカーに乗っている乳幼児、真ん中が4歳くらいの男の子、上が小4くらいの男の子。
ベビーカーの子はとても静かに眠っている。満員電車であろうと、ベビーカーの中はいつもとあまり変わらないのだろう。

めちゃくちゃ泣き喚いているのが真ん中の男の子。大人の腰くらいの身長しかない彼の前にはもわっとした空気が広がっているのか、ずっと立ちっぱなしで疲れているのか。 「あついぃーー」「せまぁいーー」と不平不満を訴え続けている。
かわいそうに。君はまだ、自分の不快と折り合いをつける術を持ち合わせていないのだろう。不快であるという感覚を抑えることができず、行動に出してしまう。それが自分ではどうしようもない外部要因によるものだったらなおさら、その理不尽に腹が立つ。
大人にはその術がある。何年も生きていると身につく。仕方がない、どうしようもないで片付けられるようになる。それに今は、自分自身も満員電車を構成する一人であるということも理解している。
君ももう少し大きくなったら、恥ずかしいという感情が強くなってくる。それがいつか快・不快よりも強くなったら、人前で泣くことなんてできなくなる。
だけどわたしは君が羨ましい。君はまだ、人前でそんなにも泣くことができるんだな。

10分くらいずっと泣き喚いていると、ついに耐えかねたお兄ちゃんが、 「あーもううるさい!」「こっちだって狭いんだよ!」「座れてるだけマシじゃん」と怒った。(4歳くらいの男の子は、ベビーカーと壁の間にもたれかかるように座っていた)
人前で泣く弟が鬱陶しくて、恥ずかしかったのだろう。君はそういう年頃なんだ。
でも、ほとんどの大人は、この状況で弟が泣いてしまうのは仕方ないと思ってるよ。こんなときは、弟が人に迷惑をかけることを気にしなくてもいいんだよ。
君は本当は優しいんだろう。
お兄ちゃんの叱責は効果抜群で、母親が何を言っても泣き止まなかった弟も、すぐに大人しくなった。

* * *

2024年9月の日記です。
写真はその日とあんまり関係ありません。


9月1日(日)

他のメンバーに、ほな・いこか、休日課長みたいな名前を付けておきながら、自分だけ川谷絵音という名前で活動するの、よくよく考えたらかなりズルいなと思った。(最近ゲスの極み乙女。をよく聴いている)

9月2日(月)

アーセナルのことを書くNoteアカウントを新しく作って、1本目の記事を公開した。
こっちのアカウントで日記なんかを書くときは、自分が何を書きたいのかわからなかったり、書きたいことをうまく文章にまとまらなかったり、いつも苦しい。けれど、アーセナルについて書くとなると、驚くほどすらすらと言葉が出てくる。

このアカウントで記事を投稿し始めた頃、ほぼ同時期にNoteを始めた方と相互フォローになって、定期的に記事を読ませてもらっている。
その方の記事が、はじめの頃と比べてかなり進歩していた。一人の人間の心の奥に潜んでいる黒いものを隠さずに表に出しているような記事ばかり。文章が切実というか、その人が語るべきことが、その人自身の言葉できちんと書かれている。
それを読んで少し焦る。

わたしは文章を書くなかで、読んだ本からの引用を入れがちである。それは、他者の観点を入れることにより文章の強度が高まることを期待してのことであるが、改めて自分が書いた文章を読み返してみると、引用を入れた途端に魅力的でなくなることに気づいた。
それはやはり自分の言葉ではないからだろうか。自分が語るべきことではないからだろうか。結局渡しは他者の言葉に頼っているだけなのだ。

果たしてこの世の物事の中で、他でもないわたしが語るべき物事なんて存在するのだろうか。
わたしはが書きたいこととは何なのだろうか。
”良い文章”を書きたいと思っているが、良い文章とは一体どんなものなのか。
文章を書くことで何を成し遂げたいと思っているのか。それは現実的に可能なのか。

9月4日(水)

会社に失望した一日。

9月6日(金)

家でゴロゴロしていたら、突然DVDプレーヤーのトレイがいきなり開閉を繰り返し始めた。リモコンのボタンが押されてるわけでもない。ついに壊れた。にしても、壊れ方がホラーすぎる。かれこれもう10年くらい使ってきた。

大学から上京し一人暮らしを始めてすぐの頃。本当は録画機能があるレコーダーが欲しかったけどお金がなかったから、間に合わせのつもりでプレーヤーを買った。確かAmazonで5000円くらいだった。
当時はNetflixなどの配信サービスが今ほど普及しておらず、TSUTAYAがどの駅にもあった。旧作は100円、新作・準新作は4本借りると1,000円といった感じ。友だちが少なかった(今も少ないが)わたしは、3日に1回はTSUTAYAに行き、毎回4、5本借りて、朝から夜中まで(というより夕方から夜明けまで)ずっと、このプレーヤーで再生して映画を観ていた。往年の名作から余程時間がないと観なかったであろう白黒映画まで、たくさんの映画を観て感動した。

今は配信サービスが充実していて、わざわざ外に出なくても、ほぼ無限に映画を観られる。画質も4Kとかでうっとりしてしまう。
けれど、やっぱりTSUTAYAでDVDを選んで、小さなテレビにつないだDVDプレーヤーで再生する。ほぼルーティン的な行動でありながらも、毎回少し違う、あの体験の高揚感は何ものにも代えがたい。

Twitter(現X)のいいねが非公開になってからしばらく経つ。
いいねが公開されていた頃は、いいねが一種の自己表現になっているところがあった。
いいねをつける行為には、わたしはそのツイートを面白いと思いました、感動しました、賛同しますといった意味が含まれていて、それを全世界に公開している。だから誰かにいいね欄を見られることを想定しながらいいねを押していた。(いいねを付けたいけど、それを人に知られるのが恥ずかしいツイートはブックマークをしていた)
そういうセルフブランディング的な感覚で、自ら何か投稿せずとも、ハートボタンを押すだけで自己表現ができていた(気になっていた)。
いいねが非公開になったというのは、自己の表現、アイデンティティの表明を他人の創作物に頼るなということなのだろうか。

9月7日(土)

ハリーポッターのスタジオツアーへ行く。ここの主な楽しみ方は、ハリー・ポッターの世界の住人になりきってセットで写真や動画を撮ることであって、それができない人は結構恥ずかしい。クィディッチの試合を観客席で応援する動画とか、グリーンバックの前で箒に乗ってロンドン動画を飛び回る動画とか。どういう顔をしていいかわからなくなる。でも楽しかった。

こういうところに来ていつも直面するのが、テーマパークのご飯問題である。とにかく高い。もちろん付加価値がつくことは理解しているが、やっぱり高い。それに混む。
2年前USJに行った時はひどかった。ジュラシック・パークエリアのレストランでロコモコ風DONを食べた。たしか2,000円弱したが、ハンバーグとかただの冷凍食品だった。
今日はハッフルパフ プレート(ローストチキン)を食べた。ドリンク付きで2,800円。高い。美味しかったし、量も少なくなかったし、見た目も楽しいし、クオリティに文句はない。が、パーク外で食べるならば1,000円くらいではないか。

テーマパークに行くときのランチの正解は何なのだろうか。合理的なのは、パーク外で食事を済ませることだろう。美味しいものを安く食べられる。けれどやっぱり今日くらいはその場所で食べたいし、だったら値段か味のどちらかには目を瞑る必要がある。
みんなそのあたりのジレンマを心のなかに抱えながらも、一緒に来た人の足を引っ張らないため、それか現実に引き戻されそうな自分を鼓舞するために、ニコニコしながら食事をしているのだろうと思った。

9月8日(日)

どんな場面においても、わたしたちは社会に生きる人間であって、そこに他者がいるのであれば、そこに絶対的な距離が存在する。
重圧を感じることもあれば、必要以上に悲観的になったり、誰かと比べて凹んでしまうこともある。

9月9日(月)

先週は結構涼しくて微かに秋の気配を感じたけれど、今日は暑い。じめじめして気持ち悪い。先週見せた優しさは嘘だったのか。

夜は映画館で『ナミビアの砂漠』を観る。山中瑶子×河合優実ということでめちゃくちゃ期待していた分、少しがっかりした。主人公がわがまますぎて、ずっと観ているのがしんどかった。
だらしがない、嘘つき、意地悪、自分勝手、暴力を振るう、なのに被害者ぶる、自滅型。(そもそもあんなカジュアルにホストに行く人は自分とは距離がありすぎるのかもしれない)とにかく観ていて苛ついた。

だけど冷静になって考えてみると、主人公のカナは21歳なのだ。21歳で、絶対的に一人なのだ。そんな少女に、”正しさ”を求めて、130分間ずっと観ていた自分に驚く。

とにかく観ていて疲れる作品だった。パンフレットすら読んでいて疲れた。でも世界ってそういうものなのかもしれない。そういう世界を、カナは生きていて、わたしたちも生きている。

映画が24時過ぎに終わって、街はすっかり寝静まっている。車も人も通らない。お店はどこも閉まっていてる通りの中で、ふぐ料理屋の水槽だけがぼんやりと白い光を放っている。
ふぐたちは狭い水槽の中で口をパクパクさせながら漂う。店は営業を終了していて中の電気も消えているのに、彼らだけが晒されている。わたしがふぐだったら恥ずかしいと思う。
夜とのアンバランスさが強調されて、ふぐが滑稽に見えた。一体彼らは誰のために泳いでいるのだろうか。

9月10日(火)

ドラマ『0.5の男』を観終わった。まるで自分を見ているかのような感覚に陥った。
40歳の雅治は実家ぐらしの無職ひきこもり。ある日親から家を2.5世帯にすると言われ、妹家族と一緒に暮らすことになる。

第1話で雅治は、夜中に冷蔵庫を漁る姪の恵麻と遭遇する。中学生になるお年頃の彼女からは「キモい」と言われるほど嫌われている雅治だが、彼女が落としたスプーンを拾って、昔あげたぬいぐるみを大切にしてくれていたお礼を伝えようとしたら、叫び声をあげられる。その声を聞いて駆けつけた家族(母、父、妹、義弟)からは、疑いの目を向けられる。「恵麻に何したの」。その5対1の構図が非常に残酷だった。

「家族からの信用」というのは存在する。他人でない分、信用されていないと気づいてしまうと辛い。ひきこもりの雅治は家族から全く信用されていなかった。
わたしは家族から信用されてるだろうか。

8歳の頃に野口英世、樋口一葉、福沢諭吉の新紙幣になった。左下のホログラムがかっこよく見えて新紙幣が欲しくなったわたしは、姉の貯金箱からお金を盗んだ。(すぐバレた)
中学でも高校でも、部活は1年生のうちに辞めてしまったし、新卒で入った会社も1年も経たないうちに辞めた。それから生活に困っていくらかお金をいくらか親に借りたまま、有耶無耶にして返せていない。

こうやって事実を並べただけでも、わたしは家族から信用されているはずがない。親はいつも大きな愛を与えてくれるのに、尽く裏切ってきた。それに引け目を感じて、ますます距離ができてしまった。

第4話では、甥のお迎えの保育園で、雅治は昔辞めた会社の上司と遭遇する。「元気なのか。みんな心配してたんだぞ」と声をかけられるも、雅治の耳には入らない。呼吸が浅くなって、逃げるように自転車を漕ぐ。カメラはアスファルトの凹凸の振動しながら、自転車を漕ぐ雅治の後ろを捉える。
わたしも前の会社の人と会うのが怖い。大好きな人たちだった。好きなことを仕事にできて、給料は安いけどやりがいがあって、わたしの居場所だと思っていた。
だけど、いろいろなことが重なり、心は沈んで地に落ちた。休みがちになって自分らしさが出せない。そんな自分が情けなくて、同僚と話すのが嫌になった。
結局、周りにかなり迷惑をかけながらわたしはそこを辞めることになった。調子が悪いときもみんな優しかったし、上司は何とか続ける道を提案して引き留めてくれた。辞めると決めてからは、何度も送別会も開いてもらったし、いくつも花束をもらった。
自分にはもったいないくらい良い人ばかりで、本当に大好きだった。
なのにもう顔を合わせるのが怖い。辞めてから一回だけ飲みに行ったけれど、それ以降は誰とも会ってない。会いたいけど、もしもばったり街中で会ったりしたら、雅治のようにはならなくても、逃げたくはなるだろう。どんな顔をしていいかわからない。ずるくて不誠実な自分が、別の環境で何食わぬ顔して生きているのは見られたくない。

それでもやっぱりこの世界は辛いことばかりではない。優しさと勇気を持って一歩踏み出せば、たまには良いこともある。
2話のラストでは、保育園を嫌がる甥が雅治のもとへ走り出す。朝の一家の騒がしさがふっと消えて、ひたすらに優しい奇跡のような光が2人を包む。
「地球の果まで地中に戻るぜ 昆虫戦隊バグレンジャー」
他にも、姪と仲良くなれたり、ちょっと恋をしたり。最終話の父とのドライブも素晴らしかったなあ

これらの”良いこと”がドラマの中で安っぽくならないのは、過去の苦しみが垣間見えるからだろう。
バグダンスを踊る雅治を見て母親が涙を浮かべる姿だったり、恵麻が雅治の部屋で見つけた「ちゃんと話がしたいです」の付箋だったり。今は平気そうに見えても、やっぱり怖くて不安でぶつかった過去があって、その後悔もあるのがわかる。

観ていていろいろ苦い記憶が蘇ってきたけれど、自分のペースを大事にすること、人と関わること、一生懸命生きることを肯定してくれる作品だった。

いろいろな家族の形を尊重して少し時代遅れのようになっているけれど、賑やかな食卓って良いなと思った。

9月11日(水)

『0.5の男』の話の続き。

大人が決めた2.5世帯計画に巻き込まれ、仲の良い友だちと離れ離れになった姪の恵麻。知り合いのいない中学に馴染めず、6人1組になって練習するダンスの授業では孤立してしまう。(そんな3話のエンディングに、(恵麻にとっての)イジメっ子5人のダンスを持ってくるセンスがすごい)

それでも最終話では、立花・塩谷家にみんなが遊びに来るほど仲良くなっている。そのきっかけは、リーダー格の女子が恵麻の得意なオンラインゲームをしていたことだった。

誰かと仲良くなるには何かきっかけが必要で、そのきっかけは非常に尊い。そう思った。
一方で、何か得意なことがなければ仲良くなれないというか、得意なことがない人に対して牙を向く人間がいるのもまた真実だ。特にコミュニティが狭い学生時代においては。
恵麻もまた、そういう女子たちと仲良くなってるのだ。今後何かが起こったらまた一人になってしまう恐怖と隣り合わせで。まるで薄氷のような友情でつながる。まあ中高生なんてそんなもんだよなあ。まあ本人たちが楽しく過ごせていればそれでいいか。

あと笑ってしまったのが、4話で雅治が甥のお迎えに保育園に行って、保育士のお姉さんと横並びになったとき、子どもたちから「けっこん!けっこん!」と冷やかされていたシーン。確かに小さい頃は、ちょっと仲の良い男女がいたらすぐに「けっこん!けっこん!」って言ってたな。好き同士なら結婚するのが当然だと思っていたし、結婚が最大の愛の形であると信じていた。

9月12日(木)

9月中旬に差しかかってもまだまだ暑い。仕事を早めに終えて18時頃に理容室へ行こうと外に出ると、想像よりも暗い。まだまだ夏だし日も長いと油断していた。どれだけ暑くても、9月は9月。日が沈むのは早くなる。そこに気温は関係ない。体感と宇宙規模の物理法則のギャップが大きくて、なんだか変な感覚になった。

散髪帰りに、路面販売もしている近くの焼鳥屋でテイクアウトしようと思ったけれど、現金払いのみだったため買えなかった。

9月13日(金)

池袋駅で大きめのリュックを、お尻からもはや膝裏くらいのかなり低い位置で背負っている女性がいた。

仕事でミスをしてしまい、夕方からそのお詫び等の対応をする。
普段はちょっと苦手な上司も優しい。他の人たちも優しい。周りの人に恵まれていることを、ミスしたことで気付けた。
転職して1年が経ってできることが増えた一方で、慣れが出てきて調子に乗っていたところがあった。人に迷惑をかけるのは良くないが、定期的にミスすることは悪いことではないのかもしれない。

9月14日(土)

シネ・リーブル池袋で『ぼくのお日さま』を観る。大人にのしかかる責任の大きさと、それを背負うにはあまりに不完全であるという現実を感じる作品だった。

その後カツ丼屋で昼食を食べる。注文したカツ丼が運ばれてきて、早く食べようとうきうきで割り箸を割ったら、根本が割れずに左右不均等になってしまった。
割り箸を割るのを失敗したら、その一食の美味しさが9掛けくらいになってしまう。

昼食の後、次の予定まで2時間弱空いたので、西武別館の地下にあるカフェで時間を潰す。
本を読んでいると、向かいの席に座っているおばさんが「うわっ!」と声を上げて立ち上がった。何かあったのかと顔を上げると、おばさんの横の壁に小さめの細い虫が張りついている。
おばさんは店員の男性を呼んで、大げさに避難している。店の人に退治してもらうのがさも当然のように。店員はおそらくアルバイトの男子大学生で、虫を前に彼も明らかに動揺している。虫が苦手なようだ。だけど、店内には他にアルバイトっぽい女性店員2人しかいない。
覚悟を決めたのか。何重にもしたキッチンペーパーを持った手で、虫を掴み取った。

確かにお客であるおばさんに退治する責任はないけれど、社員でもない所詮アルバイトの彼にも退治の責任はないように思える。
この虫に対しては、客とアルバイトは、というより今店内にいる全ての人間がフラットな関係ではなかろうか。(わたしも大の虫嫌いなので、彼を助けるようなこともできなかった。申し訳ない)
虫だから軽んじがちだが、今回対象となったのは、紛れもなく命を一つ奪う行為ではある。その恐ろしい行為の責任を、その場の代表としてわたしたちはアルバイトの彼に負わせたのである。

9月15日(日)

スマホのデータを整理するために、大学時代の動画を見返す。
過去の動画を見返すのはかなり体力を使うというか、心を抉られる。自分の声は気持ち悪くて、笑い声なんて虫酸が走るほど。必要以上に大きな声で笑って、周りの気を引こう、自分を大きく見せようとしている自分がいる。
未熟で自己中心的で。他人を利用して、好きな人と二人になろうとか。当時はそういうことばかり考えていた。

一年生の時とても仲良かった7人グループで、お泊まりをした日の動画が出てきた。たしかこの日はわたしの誕生日で、オールでお祝いしてもらった。夜は笑いすぎて息ができなくなるくらい、とても楽しかった記憶がある。
この6人とは、二年生の途中からめっきり疎遠になってしまった。原因は当然男女関係のもつれ。
彼彼女らと疎遠になってしまったのは惜しいことをしたなと思うことはたまにある。もしもあの時集まることを止めなければ、もしかしたら一生物の友だちになれてたかもしれないと。

でもやっぱり、あの友情はどうやっても長続きしなかっただろう。わたしが嫌な奴すぎたから。遅かれ早かれメッキが剥がれて嫌われ始めていたはずだ。
今思えば、どうして彼彼女らは当時のわたしと仲良くしてくれていたのだろうか。人の陰口悪口ばかり言って、それがおもしろいと思っていたわたしと。

9月16日(月)

『軽いノリノリのイルカ』を読む。発行はマガジンハウス。わたしは就活で落ちた。
本や映画やドキュメンタリー。就活で自分を落とした企業が作った数々コンテンツで、毎日毎日感動している。

わたしが人生で一番やりたくないことが早起きで、できるだけ早起きせずに済む生き方を追い求めた結果、今の会社にたどり着いた。それだから大成しないのは仕方ないとも言える。

『ぼくのお日さま』に関するネガティブな感想がTwitterで結構流れてきて、それはわたしも観てて気になったことと同じだった。
だけど、映画監督や著名なライターの方が「これは優しい映画です。おすすめです」みたいなツイートをしていて、少しもやもやした。果たしてこのコメントは本音なのだろうか?

9月18日(水)

どちらかといえばバッドな一日。

9月19日(木)

「遊び足りない」って良い言葉だ。そして、最近はそんな感覚になることないなと思う。

9月23日(月)

ヒューマントラストシネマ渋谷で『石がある』を観る。人と人の距離感の映画だった。 優しさからお喋りを始めて、勇気を出して距離を詰めて、何かを察して距離をとって。人と人の間に生じるベクトルの微妙な変化を可視化したような面白さがあった。

20時頃、川沿いを自転車で通ったら、帰宅中の50代くらいのサラリーマンが「ボクノート」を熱唱していて良かった。選曲が割と若い。わたしが通り過ぎる数秒間だけ静かになったのがおもしろかった。気にせず気持ちよく歌ってくれ。


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