ネットで調べて来てるの、店員さんにはバレてるらしい
あるビジネス書を読んでいるとこんなことが書いてあった。
これを読んでとても恥ずかしくなった。
ネットで調べてから店に来てたの、バレてたのか・・・・・・。
服を買うにしても、カバンを買うにしても、靴を買うにしても、
家具家電を買うにしても、最近はほぼ100%事前にネットで検索している。
オンラインストアのレビューやSNS・YouTubeの口コミをチェックし、
いくつか候補商品を比較する。
そうして「これを買おう」と決めてから店舗へ足を運ぶ。
念のためサイズ感やイメージとの相違がないか、実物を確認するために。
それ故、すでに明確に目当ての商品があるわたしは、
入店してから目当ての商品の場所に直行することできる。
しかし、そうするのはなぜか恥ずかしい。
まるで、事前にリサーチし尽くしてデートに臨む小物みたいじゃないか。
計画的な人間はパッとしないというか、あそびがない。
(ワイルドさもなくて魅力的に見えない。)
店員も思うだろう。
この人、家で何時間も調べて、うちの商品をロックオンしたんだろうな・・・・・・。
この商品めがけてウキウキしながら店に来たんだろうな・・・・・・。
そんな自意識ゆえに、決して目当ての商品に直行しない。
あくまで偶然を装う。
例えば駅ビルに服を買いに来たとき。
入店の前から演技は始まる。
エスカレーターで上がってきたら、
横目で中の様子を確認しながら、一度店を通り過ぎる。
しばらく歩いてUターンし、今度はふらっと(感を出して)店に入る。
「通りがかったらたまたま系統が自分の好みっぽかったんで」みたいな雰囲気で。
それからメンズコーナーをゆっくり一周してみる。
買う気のないアイテムを、一応見る(ふりをする)。
店員のいらっしゃいませに会釈したり、
何度か足を止めて吟味するふりをしたりする。
一連の長い助走の後に、ようやく本命の商品の前に立つ。
手にとって、眺めて、「お、これええやん」顔をする。
こんな感じの商品ちょっと欲しかったんですよね、
こんなところで出会えるとは好運・・・・・・。って顔をしながら、
店員の「よかったらご試着できます」の声かけを待つ。
熟考(のふり)の末に店員にそう言われたら、
「あっ、はい(ニッコリ)」と返す。
すました顔で。
試着してから「いいっすねこれ、スーーッ、これにします」
と答えてミッション完了。
無事お洒落で、かつ軽やかな人間を演じることができた。
と思っていたが『サブスクリプション』によると、
この一連の芝居、バレていた!? ということになる。
店員から見れば、さぞ滑稽だろう。
さっき接客したのは、お洒落で、かつ軽やかな人間なんてのでなく、
単に企業の思惑通りに消費行動を起こしたカモ。
マーケティング戦略の網にかかった魚でしかないのだから。
そいつがすましてかっこつけていたのだから!
* * *
一方で堀江敏幸の短編『レンガを積む』にはこんなシーンがある。
主人公の蓮根さんがレコード店でアルバイトをしていた学生時代のこと。
わたしは100%「ジャケットを盗み見し、最初から欲しかったようなふりをしてそれをさっと抜き出す」ほうの人間だ。
メインストリームはあえて聴かず、ちょっとマイナーな音楽を知っている。
センスを確立していて、自分の好みを自分でよくわかっている。
そんなわたしは、いま流れた良い曲を当然「知っている」。
それがかっこいいと思ってるので、店員のお勧めを素直に受け取れない。
服のときとは反対で、音楽に関しては最初からそれが欲しかったのだというように装う。
しかし服のときと同じく、店の思惑にまんまと乗せられてるだけなのだ。
* * *
なぜこんなに愚かな演技をしてしまうのだろう。
2つのシチュエーションに共通するのは、
確固とした「自分」を確立している人だと思ってもらいたい、という欲だ。
お洒落な店員さんの影響すら受けないほどの、岩のようなアイデンティティ。
それ持っていて、わかっているから、
服屋にふらっと入っても自分が好きなものと出会えるし、
レコードショップではセンスの良い音楽を”すでに知ってる側”の人間なのだ。
自由な人間であること、直感型の人間であること、
良い感じに力が抜けた人間であること、あそびがある人間だということ。
それを買い物の仕方で示そうとする。
しかし、実際はそんな人間じゃないから大根芝居をすることになる。
店員はこちらのことなんかお見通しなのに。
めちゃくちゃ他人でありながら、客を決して傷つけない。
そんな都合が良い”店員さん"という存在に、
わたしは理想の自分をぶつけている。
嗚呼、情けない・・・・・・。