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世阿弥が『風姿花伝』で言ってる「物真似の本質」ってなんだ?(第二 物学条々)(前編)
室町時代の天才能楽師、世阿弥が残した本を読むシリーズ。
世阿弥が最初に著した『風姿花伝』の第2章である「第二 物学条々」を読んでいきます(全2回、後編はこちらから読めます)。
ここでは、能楽で役を演じるときのなりきり方について論じています。ものまねという言葉に「物学」と漢字をあてているように、世阿弥は物から学んで演じることの重要性を感じていました。
「第二 物学条々」では、その学ぶべき対象を9種類に分類し、どのようなことに心がけるべきかについて書いています。
細かな種類ごとのものまねについて書く前に、世阿弥は似せることの重要さを説きます。
ここで注意すべきなのは、真似る度合いに濃淡を持たせる必要があるという主張です。
能役者にとって、天皇や大臣といった公家や武士階級の人々は遠い存在です。世阿弥は、「彼らを忠実に真似るべき」だといいました。濃い物真似を求めたのです。しかし、なかなか見ることができない彼らの所作をリアルに真似ることは簡単ではありません。いったいどう学べば良いのでしょうか。
世阿弥は、当時の将軍だった足利義満に寵愛されて以来、天皇や武士の前でも能を披露するようになります。その時に見た彼らの振る舞いや言葉、花鳥風月を愛でる感性、これらをできる限り似せるように努力すべきだと言うのです。
序言で「歌道は風月延年のかざり(和歌を詠むことは長寿効果がある教養だ)」と世阿弥が書いているように、貴族の嗜みである和歌に触れる重要性ともつながってきます。知識・教養を蓄えるだけでなく、彼らの文化を理解することが学びになっているとも言えるでしょう。
上流・武士階級のものまねをできる限り忠実に、濃くするように説く一方で、淡く(解像度を低く)ものまねすべきものもあると世阿弥は考えていました。それが、木こりや草を刈る百姓などといった田舎者のものまねです。
粗野な身分の者を忠実に真似すると所作が卑しくなり、貴族にも認めてもらえる能の美しさは失われてしまいます。そのような仕事を否定しているわけではありませんが、美しい芸能として成立させることと、下級市民の生活を上流階級に生々しく見せてはならないという配慮から来る考えでしょう。
表面的にキャラクターの仕草や言葉を写実するのではなく、本質を見極めた上で能楽に取り入れることが大事である。この章で一貫して主張している世阿弥の考えです。
そのことを踏まえて、細かな種類のものまねについて見ていきましょう。
「風姿花伝」の本文は、『世阿弥・禅竹』(表章・加藤周一校注)(日本思想体系(芸の思想・道の思想)1、岩波書店、1995年)の「風姿花伝」から引用しています。
女 - 物真似はここから始まる
まず世阿弥が取り上げたのは、女形です。能役者は全員男性であることや、曲中に登場する役の中で女性役が最も多いことが理由に挙げられます。特に女姿を演じる時には、身だしなみに十分気を配る必要があると世阿弥は考えていました。
最も扮装に注意すべき女姿を若いうちから稽古することで、その後に他の物まねをする時も身だしなみを意識する習慣がつきます。世阿弥の父である観阿弥が一座の主だった頃は、物まねを表現の軸としていました。それは後継者である世阿弥にも受け継がれ、『風姿花伝』でも1章を物まね論に割いています。
「能といえば“幽玄”」というイメージを持っている方もいるかもしれません。でも、それは本質を掴んだ物まねによる美しさであり、曲の物語を写実的に描けた先に、美しさを追求する磨きをかけることができるのです。
前に、真似る度合いの濃淡について書きました。
扮装に注意しなければいけなかったり、女役の出番が多かったりすることから、女姿は濃い物まねをするように求めています。
上流階級の人間は濃く物まねをするように、という世阿弥の考えがありました。宮中の女性である女御や更衣といった大臣たちの娘は、忠実に真似る必要があるのです。普段接することのない彼女たちをどう真似るべきか。世阿弥はこう説きます。
女御・更衣などの似事は、輙其御振舞を見る事なければ、よく/\うかゞうべし。衣・袴の着様、すべて私ならず。尋べし。
「私ならず」、つまり、自己流でやってはいけないということです。ある一定のルールがあるのです。ひそかに調べてみるなどして、そのルールを理解してほしいと考えるものの、それには限度があります。
そうなった時には「尋べし」。
分からないなら分からないと正直になり、周囲に尋ねるように説きました。自分勝手な着こなし、判断はNGです。
生活している中で見かけるような女性を演じる際は、見慣れているから簡単だろうと考えています。おおよそ容姿が整っていれば問題ありません。
しかし、歌ったり舞ったりする女性が曲の中に登場することもあります。彼女たちは上流階級ではなければ、生活の中で見かける女性とも違います。この世に存在しない、恨みを持った幽霊として女性が登場することもあるでしょう。そんな女性たちは、どう演じるべきなのでしょうか。
舞・白拍子、又は物狂などの女がかり、扇にてもあれ、かざしにてもあれ、いかにも/\弱々と、持ち定めずして持つべし。衣・袴などをも長々と踏み含みて、腰・膝は直に、身はたをやかなるべし。顔の持ち様、あをのけば見目悪く見ゆ。うつぶけば後姿悪し。さて、首持ちを強く持てば、女に似ず。いかにも/\袖の長き物を着て、手先をも見すべからず。帯などをも弱々とすべし。
扇やその他の持ち物をしっかりと握らず、弱く持って演じるように説明しています。服装は脚が隠れて見えなくなるほど長く着て、しなやかな身のこなしであることが求められます。顔が上を向きすぎると良い表情とは言えず、うつむいていると後ろ姿が悪く映ってしまう。
じゃあ、ちゃんと顔の向きをしっかりと決めて維持するんだ!と強く顔を保とうとすると、それは女らしくない。ちょうどいい立ち姿を見つけなければなりません。
服装や表情について心がけるべきことが多く挙げられていますが、世阿弥は役の“本質”を掴んでほしいと考えています。観客に向けてどう魅せるかが重要な能楽において、一番最初に観客が得る情報は服装と役者の動きです。外面的な身のこなしが女性らしくなるためには、内面的な心構えをしっかりとして滲み出るようにする努力が必要です。
「女を演じるのではなく、女になる」という姿勢は、真似ることで学び、やがて自分に取り入れていく“学習”の流れには重要な過程ではないでしょうか。
老人 - 美しく「老い」を“真似る”
この「第二 物学条々」の前に書かれている「第一 年来稽古条々」は、年齢ごとにどんな稽古をすべきかについて書かれています。年齢を重ねるということは、稽古を重ねて多くの舞台に立っていることを意味します。他の世界でも言えることですが、老人は「円熟していて、多くの経験値がある」人という印象があるのではないでしょうか。
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