見出し画像

曇天の風、揺れる声。

今にも雨が降りそうな、そんな曇天が好きだ。

雲一つない快晴は、洗濯物が乾くためにあるのであって、自分の空ではない。雨が降る前に強く吹く風が自分の心より荒れているのを感じることで、私はいつも安心していた。

いざ雨が強く降り出してしまえば、家の中から雨音を聞くくらいがちょうどいい。理性が壊れてどうしようもなくなったら、その衝動が治まるのをじっと待つしかない。


「知らないほうが、いいこともある」
昔の恋人が何度も繰り返したその言葉が、今でも頭から離れずにいる。
想像は人の心を豊かにさせ、時に苦しめる。知らないほうがいいこともあるだろうけれど、一番は「そんな事実を知りたくなかった」ということに尽きる。

能『松風』には、在原行平に愛された海人あまの姉妹、松風と村雨が登場する。幽霊となって現れた彼女たちは昔を思い出し、行平への想いが高まって狂乱していく。ただ、そこに行平は登場しないし、どんな恋愛だったかという描写も出てこない。


「そんなことは、知らないほうがいい」と能舞台から囁かれた気がした。


想いを言葉にするのは難しい。
言葉にしてしまった瞬間、想いがコンパクトになってしまうような気もする。

曲の終盤で、シテの松風は舞を舞う。
「恋しい」「愛しい」という言葉に、その狂おしいほどの想いを委ねるわけにはいかなかったのだと思う。

狂うほどの恋慕を理解してほしいと思いながらも、その話を聞いて受け取れるほどの簡単な話じゃないという独占欲が葛藤する。実際に松風は、想いを言葉にすることはなく、狂おしい想いに身を任せて狂乱した。

あなたには、間接的に知ってほしい。
シテの舞からは、そんな気持ちが客席へ溢れているように見えた。


誰にでも、一人で背負っている人生がある。全て見せる必要はない。
私はその記憶を、曇天に吹く風にならば、さらすことができる。
雨が降る前にしかやってこないあなたなら、勇気を振り絞って打ち明けてもいいのかな、と思ってしまう。


窓から外を見ていると、雨が降り出した。
私はまた、独りになってしまった。



いいなと思ったら応援しよう!

成瀬 凌圓 / Nullxe Ryoen
最後まで読んでいただきありがとうございます! いただいたサポートは、書籍購入などnote投稿のために使わせていただきます。 インスタも見てくれると嬉しいです。