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闘病日記 ¦ それでも生きたい


夜、クリープハイプの音楽を爆音で流しながらドライブするのは最高に気持ちいい。

精神障害者は、あたまがおかしいと除け者にされた事が何度かあったがおかしいのは君たちもだろと思っていたのは間違っていなかった。

体罰してきた教師、パワハラしてきた上司、虐めてきた元同僚。

全員どんな人生を歩むかしらないけど地獄にも天国にも行かず日々それなりに絶望を味わいながら暮らしてほしい。


何も無いより、何かを得ている状態で失う方が余程辛い。
君たちにはそれが分からないだろうけど、私は何度も経験をした。

学生の頃は同級生と話が合わず苦労した。

勉強、運動、生徒会全てを全力でこなし、プライベートでは彼氏がいたから他の人にとっては充実していると思われていただろう。

蓋を開けて見れば、彼氏はモラハラ気質、家では虐待。いやこんなこと誰にも言えるわけない。
助けてなんて言えるわけない。

ただ将来が怖くて毎日必死に生きていても、結局進学すらさせてもらえなかった。人生終わってんなー。ってそんなことばかり考えて自傷したり、将来なんて考える方が怖くて私は今のことすら怖くて海に飛び込んだ。

高校生1年生の夏、精神科に入院した。

精神科の先生は優しかった。
今ももちろん優しいが、絶対に死なせないという意志を強く感じる。

特に助けてくれる訳でもないのに、いつも頼りにしてしまうのは心から信頼しているからだろう。

「よく生きているね」と何度も言われたことがあるがそれは褒め言葉じゃない。
「大変だったね」もムカつく。
ただ頷いてくれるだけでいい。

私の重い話を重いと捉えられているとわかる時が尚更辛くなる。

それでも私は生きようとしている。



去年の9月.未遂で終わりICUに入ったときは、悪い走馬灯を見ているくらいに世界に絶望していたけどその世界ってやつは母親が全てで尚且つ母の手の中だったと精神科に入院してから強く思った。

21歳まで私の人生は私のために生きたことが無かった。

母のため、母が喜ぶこと私の気持ちなど後回しにしてどんなに苦しくても心を殺して母に全力で尽くしてきた。

それが母の教え、親孝行そうすべきだと幼い頃から言われていたから逆らえなかった。

反抗期の真っ只中、中学2年生の時母というゴミはパニック障害になった。

そのため母に付きっきりで看病する日もあり当然学校には行けず、反抗もできず私の精神は乱れて毎日タオルにガムテープをぐるぐる巻きにして、ドアノブに固定し首を吊るということを繰り返した。

風邪薬を100錠ほど飲んだこともあった。ODなんて言葉をしらない中学2年生の女の子がここまで追い込まれるのは異常だ。

私が人間だということを認識できたことのはつい数ヶ月前のことで、それ以前の過去を振り返ってみると1度もなかった。「私一応人間だからさ」という本気度MAXな言葉を何度笑われただろうか。

精神科の看護師さんが「もっと自分のために生きていいんだよ」と言ってくれた。当時の私はそれが綺麗事に聞こえてならなかったが自分の人生は自分のために生きなくては何も始まらないと思うようになった。

退院後、男を作り依存したこともあったが誰かに依存するという方法で逃げることはなにも生まない。


実家を出てから本当にしたいことを書いてみた。心の奥底に閉い続けていたものが母から離れるとなんの躊躇もなくスラスラと語源化できた。

誰かに抉られた私の気持ちなんて私にしか分からない。
自分自身が人間であることは間違いない

どん底だけど、明日も明後日も生きてみよう

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