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国際情勢や社会問題の「分断」をひとくくりにしない
昨日の記事でも書きましたが、ロシアのウクライナ侵攻問題では、ロシア軍の即時撤退やウクライナの秘話達成を求める国連決議案において、一貫して8割り程度の国々が賛成しているとはいえ、反対にまわる国々も一定数いることがわかります。
最近このようなロシア・ウクライナ問題や「米中対立」なども含めて、国際情勢の中で「分断」という言葉をよく耳にします。国際情勢に限らず、アメリカや日本など、どこかの国の国内世論や社会情勢を説明する文脈の中でも「分断」という言葉を良く耳にします。
グーグル検索などで検索してみると、たとえば以下のような国際問題が話題になるときに「分断」という言葉が使われていることがあるようです。
ロシアのウクライナ侵攻と国際社会の反応
米中対立
宗教対立
軍事ブロック・軍事同盟
経済格差
人種
一方、国内で言えば以下のようなことが話題になるときに「分断」という言葉がつかわれることがあるようです。
若者対高齢者
正規雇用対非正規雇用
地方対大都市
富裕対貧困
性
子供の有無
国籍
保守対革新
これらの問題を考えるときに私自身注意しなければいけないなと思うのは、これらの中には、もちろん双方の主張に一理あり、「双方の譲歩や歩み寄り」が必要で共存を模索する必要があるものもありますが、そもそも分断・対立というよりは一方的な「差別・抑圧」に起因するものや、民主主義・人権擁護の基本原理からの逸脱に起因するものもあるということです。
世界人権宣言、現行日本国憲法、国連憲章など現代社会における私たち人類の、国際社会のルールや平和に対する考え方や人権に対する到達点・原則に照らして、そもそも歩み寄りや譲歩での解決がそぐわない問題が含まれているということに注意が必要だと感じます。
そのような問題は原則に照らして、「許してはいけない・あってはいけない」という立場で問題を見ていかなければいけないこともあるということです。
一般論として「分断」の問題を語るときに、「社会の分断が深まっている」という言い方でただ「問題だ」と嘆いたり、双方の意見をよく聞いて「双方の譲歩や歩み寄りが必要だ」との論調になったりする場合がありますが、私はすべての「分断」がこのような議論でかたづけられるわけではないと感じています。「分断」と一言でくくりにして「譲歩や歩み寄りによる分断の解消が必要」というような議論は、時に何の解決にもならず危険だなと感じます。
歩み寄りによって解決できない問題もあるということを深く認識する必要があると、そしてそのほとんどは民主主義や人権擁護の原則に照らして解決策を見出していかなければならないということを、自戒も込めて肝に銘じたいと思います。