進級論文の思い出 (3)。地質調査中の出来事
大学3年生の時の進級論文の課題で、その年の夏休みに約1ヶ月ほど山形県西置賜郡小国町の地質調査を行いました。以前2回ほどこの進級論文の思い出について書かせていただきましたが、今日はその3回目。地質調査の思い出です。
くじ引きで決まった私の調査エリアは、国道113号線の赤芝峡の北側。北に延びる尾根と南北に流れる荒川に挟まれた地域でした。
荒川沿いの低地から東斜面の沢にとりつくと、新第三紀中新世の泥岩、凝灰岩などからなる地層が出てきます。沢の下流は比較的登りやすく、調査はそれほどきつくはありません。
しかし沢の中流付近から地層が礫岩層に変わると、とたんに沢の様子が変わります。次々と大小の滝が行く手を阻み始めます。礫岩層や砂岩層が、泥岩や凝灰岩に比べて浸食を受けにくく、壁を作っているのです。
これらの滝を直登したり、まいたりして沢を登りきると、また地形が変わり、なだらかな尾根の上に出ます。そこは以前紹介したように、森の巨岩の上に立つ沖庭神社など、何となく幻想的な光景が広がります。礫岩層の上面が緩やかな尾根を作っているのです。
さらに西に進むと堆積岩の基盤をなす花崗岩の険しい山となり、他の同級生が調査を担当する隣の地域に入ります。
調査が終わると、また沢を降りて帰ります。余裕があれば、別の沢を降りながら調査したりもしていました。
[車のキーを落とす]
ある日、調査を終えてふもとに止めてあった車に戻ると、確かにリュックのポケットに入れていたはずの車のキーが見つからなかったことがあります。
ズボンのポケットやシャツのポケットなども焦りながらくまなく探しましが、見つかりません。合宿所はおろか人家からも遠く離れた場所です。当時は携帯もありません。
やむを得ず意を決して、朝から調査したとおりの道筋で、沢の中を戻ることにしました。大きな岩の右側をまいたのか左側をまいたのか、滝をどう越えたのかひとつひとつ思い出しながら沢筋を辿っていくと、かなり上流の沢の水の中にきらりと光るものが。。車のキーを見つけました。
この時は本当に焦るとともに、見つかった時の喜びは大きかったです。あとで友人にこの話をすると「そりゃ奇跡的だ。普通諦めるだろ。」と言われました。確かに奇跡的だったと思います。しかしその時は焦りすぎて沢に戻ることしか考えられませんでした。
[コンタクトレンズを無くす]
沢の中で小枝が眼のふちに当たり、コンタクトレンズを落としたこともあります。
この時も私は周囲を狂ったように探しましたが、さすがに見つかりませんでした。その日はあきらめて宿に戻り、翌日車で新潟にもどってコンタクトを急遽作りました。
調査から一時離脱しなければならないダメージと、コンタクトレンズ代の出費の大きさにかなりへこみました。そして予備レンズの大切さを痛感しました。それ以来、今に至るまで、予備レンズは必ず常備しています。
そもそも、当時は調査中のヘルメット、ゴーグルなどの着用に関してもかなり甘く、時代の差を感じます。
[隣の区域と地質図がつながらない]
調査が進んでくると、隣接する地域を調査する同級生と境界部を一緒に調査することがあります。早めに、計画的に調査を一緒にして目合わせをしておけば、境界部に大きなギャップは出来ないのですが、自分の調査に専念するあまり、隣の地域との整合性を考えないと、あとで、隣の区域と地質図がうまくつながらない、なんてことも起こります。
調査も後半になるとお互い大きく地質図を変えるわけにもいかず、そのままギャップが埋められず提出することも。あとですべての調査区域の地質図を統合したときに生まれる、調査区域間のギャップを、私たちは「境界断層」などと呼んでいました。進級論文「あるある」です。
地層の露出の悪い日本国内で、沢筋や小さな露頭の観察結果を繋ぎ合わせて地質図を完成させるのですから、ベテランが同じ地域を調査しても地質図は人によって多少変わるのが当然です。そのうえ、学生の未熟さが加わるわけですから、よほど計画的に隣接する調査地域と調整しなければ「境界断層」は避けられません。
地質学の難しさとチームワークの大切さを実感しました。