「現実的」とはなにか
核兵器廃絶問題にしても、エネルギー問題にしても、沖縄の米軍施設問題にしても良く出てくるのは「現実的」とか「現実的対応」という言葉です。
本当に技術や知識が追いついていないのであれば「現実的」の範囲は自ずと狭められ、その範囲での対応を取らざるを得ないと思います。
しかし、私は政策の話しで出てくる「現実的」という概念は非常にあいまいであると思っています。コストにしろ、便益にしろ、どこまでを含めるかで話は変わってくると思います。
再エネへの転換もコストがよく問題にされますが、気候変動により食糧や健康問題を含めた多大な被害やその対応を含めたコストも考えれば今この時点で再エネに大きくシフトするメリットは、その効果も含めて非常に高いという評価もあります。気候変動のティッピングポイント (転換点) の存在も指摘されており、たとえば同じ10年間の二酸化炭素削減目標もそれをできるだけ早く達成するとその効果はより大きくなる可能性があります。
[朝日新聞DIGITAL 2023年12月7日 18時30分]
原発の問題も廃炉コストや核のゴミ処理まで含めたいわゆる隠れたコストやリスクを考慮すれば「現実的」の概念は大きく変わる可能性があります。
核抑止論もその真意はともかくトランプ大統領は核兵器削減を口にしています。しかし、私たちが直接コントロールできないアメリカの政策は、いつまた核兵器増強に動くかわかりません。私たちが直接コントロールできない核保有国の政策に右往左往させられることが「現実的」で効果的な安全保障政策なのかどうか。
私たちは「現実的」をどうとらえるべきか慎重に真剣に考える必要があると思います。
大規模火力や原子力に利権のある人にとっての「現実的」の概念、米国との同盟関係に強く利害のある人にとっての「現実的」の概念。そのようなしがらみにとらわれず科学的・合理的に導き出される「現実的」の概念。
私はなにを「現実的」とするかを考えるうえでも科学の合理性をよりどころにしたいです。そのためにも特定の利益団体に左右されず、自由で安定した生活と研究が保証された科学者の集まりであるナショナル・アカデミー (日本でいえば学術会議) の活動に期待をしたいです。ナショナル・アカデミー はそういう組織であるべきだと思います。