東南アジア木造建築の傑作、「ホーチミンの家」
夫が建築専攻の修士学生だったときに訪れて感銘を受け、フランス建築から東南アジア建築に目を向けたと言っていたのが、この「ホーチミンの家」でした。
当時から話は聞いて興味はあったもののチャンスはなく、四半世紀も経ってからやっと訪れることができました。
前川國男自邸の、東南アジアバージョン
この家は、ホーチミン氏が1958年から亡くなる1969年まで実際住んでいた家です。
正面からぱっと見た感じでは、「思ったよりずっと小さい」「カンボジアの高床住居っぽいが屋根が違う」「屋根が沖縄っぽい」でした。
左右の黒(グレー)の部分は簾で、構造ではありません。
最初カンボジアの高床住居を思い浮かべましたが、近くまで寄るとサヴォア邸のピロティの方が近いと思いました。フランス近代建築からも影響を受けていることが明らかです。
建材や什器はシンプルで上品です。
ここでフランス建築巨匠のコルビュジェ繋がりで、前川國男邸を思い出しました。
コルビュジェの弟子、前川國男の自邸はフランス近代建築と日本の伝統建築を組み合わせた作品です。外から見ると日本建築ですが、一階部分の窓を全開放するとピロティのようになり、やはりフランスから大きな影響を受けています。
「ホーチミンの家」は、この東南アジアバージョンのような気がしました。
さて、「ホーチミンの家」の2階に上がってみます。2024年現在、内部には入ることはできません。
居住空間は2室しかありません。高床式で、3面全面が網戸になって風が通りやすい、東南アジアの作りです。
前川國男氏の自邸同様、パッと見は東南アジアの家ですが、ディテールがフランスのものです。机には本とラジオが置かれ、ベッドを使っていたようです。30年間をフランスなどの外国で過ごした、ホーチミン氏のバックグラウンドを物語っています。
「独立 - ホ・チ・ミン(胡志明)の物語」
さて、ホーチミン市が南部にあることから、ホーチミンさんが北部出身者だということにあれ?と思う方もいらっしゃるかもしれません。
ざっくり言うと、ベトナム戦争が終わるまではベトナムは今の朝鮮半島のように南北に分かれており、北ベトナム(首都ハノイ)ではホーチミン氏を指導者とし、南ベトナム(首都サイゴン)では西洋諸国の後援を受けていました。ハノイがサイゴンを陥落させたため、サイゴンを改名して指導者の名前をとり「ホーチミン市」としたのです。
(ちなみに日常生活では、ベトナムの人は今も「サイゴン」と呼んでいます)
物語 ヴェトナムの歴史 を読むと「独立 - ホ・チ・ミン(胡志明)の物語」の章だけでベトナム近代史の概要になっています。
ホーチミン氏の海外での活動はあまり明らかになっていませんが、フランスで学び長く暮らしたことから、フランスから(また日本からも)独立する方法を掴むことができたのだろうと思います。
辿り着くまでが大変!その他の施設色々
「ホーチミンの家」にどうやって辿り着けばいいのか。この仕組みを知るのに時間がかかりました。以前(25年前…)はホーチミンの家だけをタイ湖側(北側)からふらっと訪れることができたようですが、今かなり厳しくなっています。
必ず最初にホーチミン廟を訪れ、以下の順番での一方通行でしか行くことはできません。
①8:00-12:00の入口は南側の1ヶ所のみ、手荷物チェック、カメラ預け入れ。(私のFujifilm X10は一旦カメラ専用バッグに入れられたものの、クロークでは手持ちでいいと言われました)
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②ホーチミン廟(ホーチミン氏の遺体を安置)
終わった後に、カメラを預けた場合にここで受け取る
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③文化エリアにてホーチミン氏の執務室、住居を見学(池周辺に2カ所)
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④(オプション)一柱寺
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⑤(オプション)ホーチミン博物館
ホーチミン廟南部にある大使館ゾーン
この広大な敷地の入り口に、目をひくフレンチヴィラが数軒残っています。おそらく仏領時代に建てられて、手入れをされながら今まで残っていたもので、よく見ると大使館か国営の施設が入っているようでした。
カナダ大使館や、ウクライナ大使館がありました。
朝7時のホーチミン廟。8時まで文化ゾーンが開かないと言うので一旦外に出てしまいましたが、これが後に1時間半の行列に並ぶ原因となり、失敗でした…
記念写真を撮っています。
アオザイは、座るときに気をつけないとすぐ引っかかったり生地がつったりするようです。
右側の二人が生地を前に寄せていますが、バイクに乗る時も同じで、サッと前後の生地を纏める手慣れた様子に驚きます。
一旦外に出てしまったので、並びなおします。入り口も早朝と違ったので、かなり歩きました。
ひたすら並び、歩きます。クロマー(カンボジアの万能布)をたまたま首に巻いていましたが、これが日除けになり大活躍しました。
こちらホーチミン廟の見学が終わったところです。緑のフェンスの中が、文化ゾーンです。
「ホーチミンの家」以外の住居と執務室
ホーチミン氏の執務室などを見学できます。先ほどの住居と違い、完全にフランス風の建物です。
キッチンだそうです。ガスコンロやオーブンは輸入したのだろうな。このレンガで台を作り、白いタイルを貼るキッチンは、今もベトナムやカンボジアの地方では一般的です。
よく見ると、装飾がかなり凝っています。旧仏領インドシナの建築は、南フランスのプロヴァンス地方や、地中海地方の建築スタイルを参考にした建物が多く建設されたようです。
ゴッホも日本への憧れからプロヴァンスに移住したそうです。簡単にヨーロッパとアジアを行き来できなかった時代に、南フランスにアジアを求めることは珍しいことではなかったのかもしれません。
上の写真の執務室には、日本人形と思われる置物があります。ホーチミン氏は、フランスと日本からの独立で戦った一方、その独立の方法として日本の明治維新を研究したそうです。
一柱寺 (Chùa Một Cột)
一柱寺は通称で、正式には延祐寺(Diên Hựu tự)と呼ばれる寺院なのだそうです。最初の仏塔は1049年に建てられました。以前は、ホーチミン廟とは別の機会に来た気がしたので、敷地内に一柱寺があったことに驚きました。
アンコール遺跡でいうと、アンコールトム内のバプーオンが1060年頃なので同じ年代です。一柱寺は再建されたからかもしれませんが、バプーオンの方がずっと古い感覚があります。
一柱寺は李朝時代に建築され、その後何度も壊されては再建されているようです。
1954年には爆破されたようです。
これは一般にはフランス人によって爆破されたと伝えられているようですが、Wikipediaによるとフランス軍のベトナム人中尉によって破壊されたとのことです。
バプーオン同様、一柱寺は数奇な運命をたどっていますね。
バプーオンは、クメールルージュを経験した後も崩壊したままで、2000年代に入ってからやっと修復されました。