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ポンコツな私のウツ歴史②就活編

不出来な女子学生で、就職活動は超氷河期だったにもかかわらず、就活は相当「舐めて」いました。世代的にはウーマンリブにかぶれていて、しかもやたら自己評価が高く、就職活動では「総合職じゃないと嫌ざます」と一般企業の一般職オファーを一蹴。最難関とも言えるテレビ・新聞・通信社・出版社に絞って受けました。

■ロスジェネ世代でもギャル就活

しかし今思えば圧倒的に情報・準備不足でした。普通は、マスコミに行こうと考える学生は、2年生ごろから関西でもマスコミ対策の予備校に行くものなのだそうです。が、妙に自信があった私は「そんなの行かなくてもいけるでしょ」と、まるで丸腰。もちろん「ニュースダイジェスト」などのマスコミ就活本は、バイブルにして勉強していましたが、独学でやるのは、今思えばとても効率が悪かったし、就職した後も、マスコミ業界に関する知識が圧倒的に欠けていたことが、自分の立ち位置を定めるのに時間がかかった要因だったと思っています。

当時は大変な不景気で、新卒が職を得るほとんど唯一のチャンスでした。さすがに夏になっても内定がひとつもないので、それなりに焦り、一般企業にもウィングを広げました。超有名企業の面接にポイっと行って、「本当はマスコミに行きたいんですけど、滑り止めできました。総合職じゃないと嫌ざます」と高飛車なことを言って、でも、もろもろ見栄えがいいので最終面接ぐらいまでは行くのです。まったく。。。世間は寄ってたかって、私という人間を甘やかした。。。とは、おばさんになった今思うことです。

当時はとても苦しんだと思っていました。

ずいぶん後になるまで、自分は超氷河期世代だから就活が大変だったんだ、と思っていましたが、よく考えると、マスコミしか受けなかったから厳しかっただけでした。当時マスコミは花形。そして、どの社も、部門別に1年に何回か受験する機会があります。テレビだと、アナウンサーと一般職で2回ありますし、新聞も春採用、夏採用、秋採用とあります。それらを合わせれば確かに二十回ぐらいは落ちたと思いますが、来る学生の層(学生でなく、すでに地方紙などで記者をしている人も多数いました)もマスコミ一本に絞って全国行脚しているような人たち。一般企業を70社受けて全滅とか、そういう武勇伝とは質的に全然違います。

大阪にも関西キー局というのはありますが、新聞社も本社はありますが、出版は東京にしかありません。だから、地方からのマスコミ就職は大変です。新聞は交通費を一次面接から出してくれますが(筆記で一気に絞るから、京阪電車の往復800円でも払ってくれました。優しいなあと思いました)、テレビ・出版はそんなに優しくありません。4回も呼び出して、交通費が出るのは最終面接だけです。東京〜大阪の新幹線交通費だけでも半端ではない。でも、親はそれを文句も言わず負担してくれました(苦労人の同僚は、「就活に入る前に、バイトで貯めた」と言っていましたが、私はそんな気はさらさらなかった)。今考えても、どうしてそんなによくしてくださったのかわからないのですが、東京在住の叔母(仲良くしてもらったが、血の繋がりはない)が、フジテレビのアナウンサー試験と、テレ朝のアナウンサー試験の会場に送り迎えしてくれました(笑)。まったく。。。おばさんと一緒に就活って、聞いたことない。

■とにかく寝てばかりだった夏休み

とまあ、そんな蝶よ花よな就活でしたが、おそらく、疲れてしまったのでしょう。

夏休み。内定が決まってなければ、普通ならエントリーシートを書きまくって面接の予定をガチガチに組むべき時期でしたが、私が何をしていたかというと、ずっと寝ていたんです母親はそんな私を見て「ああ、これでこの子はダメになっちゃうんだ」と覚悟したのだそうです。

確かにずっと寝ていましたが、その時にエントリーシートの中身(今でいう「ガクチカ」)を固めるため、近所の福祉施設に取材に行き、面接のためのネタを仕込みました。そんなことをする人は、ほかにあまりいないので、薄っぺらな自分の学生生活に、説得力を持たせるのに、一挙に成功したのです。

■最終面接前は、帝国ホテルでアイスコーヒー

そして、9月に入って始まった秋採用。

就活にグッチのバンブーバッグ。エントリーシートの写真はアナウンサー用で、何回も撮り直したから、たしか5万円はかかりました。そりゃあほかの人とはレベルが違う写真の出来栄え。

それから、実は縁故もなくはなかった。当時の社会部デスクで、のちに役員になった方に、口添えをお願いしていました。この方には、大学に入学直後にもマスコミ志望であることをお伝えして、お世話になっていて、二度目のお願いでした。

当時は何もわかりませんから、闇雲な努力でしたが、実は地味に効いたパンチだったかもしれません(笑)。

東京本社での最終面接前は、途中の帝国ホテルのラウンジで1700円ぐらいのアイスコーヒーを飲んで(!)、元気を補給した覚えがあります。というより、緊張と、大阪からの長距離移動でヘトヘトで、会社までたどり着けなかったんです。

そして、私は、今思っても、本当にへなちょこでした。どれぐらいヘナチョコかというと、面接で泣いた(笑)。圧迫面接などでは断じてなく、自分が喋っていることに感情移入してしまっただけでした。

面接で泣くなんて、普通は要警戒です。常識で言えば、定石でいえば、採用しない。でも、たぶんそんな21歳がめっちゃ可愛かったんですよ(笑)。一流企業の余裕があるから、ポンコツのへなちょこかもしれないけれども見栄えだけの私を、面白がって採用してくれたんだと思います。新聞社は、当時はまだまだ元気でした。

それでも手応えは充分で、結局のところ、サクッと、大手新聞社に内定してしまいました。単位も、教授に頼み倒して無事ゲット。

1999年のことでした。

■なぜか涙が溢れた着任日

1週間の研修を終え、着任した支局での歓迎会では、トイレに立ったきり、席に戻ることができませんでした。何が理由か、いまだにわからないのですが、トイレで号泣していたのです。

意地悪を言われたわけではありません。そもそも大した話もしていない。

けれど、所詮はチャラい甘ちゃんの関西ギャルであるということを見透かされていることはひしひしと感じ、号泣してトイレから出られなかったのです。

東京本社管内ですから、みんな標準語で、上司は私のことを「ななつぼし君」と呼びました。女の子なのに「君」づけで呼ばれるなんて、初めてのことでした。それまでは、たとえば名前が「ななつぼし てるこ」だったとしたら、「てるちゃん」と呼ばれるとしたものでした。私は相手を苗字で呼んでいても、なぜか「てるちゃん」と呼ばれる。そういうキャラだったし、「声に出して呼びたい名前」だった気もします。そんな甘やかされた人生が「終わった」のでした。

終わったのですけれど、「終わった後」のことは、全く想像の域外で、呆然と立ち尽くしていた感じです。

なんで泣いているのか自分でもわからないまま、とめどなく流れる涙。やさしいおじさん記者が、その辺の花を手折り、私の髪に飾ってくれました。

当時を振り返って、「ななつぼしちゃんは、周囲の人に恵まれませんでしたね」と言う人も約1名いましたが、はっきりいって、その会社に入る人の平均的能力があれば、他の人よりダントツで引き立てていただけた自信があります(笑)。初任地の場所も、東京本社管内で(これもまずはラッキーと言えた)は、行ったことのある県でしたし、大阪出身のギャルだった自分としては、東北とか北関東と言われるよりは、ずっと心理的ハードルは低かったと思っています。

だから、ラッキーには恵まれていたと思っていますが、ラッキーを掴むにはまったく身長が足りなかったんです。

初任地では、本当に、もう恥ずかしくて言えないような失敗を、言い訳ができないほど山ほどしました。誰のせいでもなく、私の能力不足ゆえです。

もう、開いた口が塞がらないような失敗を山ほどして、かといって辞めることもできず(初めての一人暮らしで家具を山ほど買い込んでしまい、引っ込みがつかなかった)、迷惑ばかりかけていました。迷惑をかけた割には、全然仕事の全貌はわからないまま。

■「翼をさずけて」くれた睡眠導入剤

2ヶ所目の支局でも、失敗は相変わらずでしたが、兵庫県内の小さな支局で、関西弁に心からホッとしました。そして、その支局は2年弱で転勤しましたが、最後の4ヶ月間、ハッと目の前の曇りのようなものが消えました。

なぜかというと、初めて、精神科に行き、睡眠導入剤をもらったからでした。

幼いころから「眠れない」という悩みを抱えていた私にとって、これは正に「翼をさずけられた」ようなもの。一気に仕事が楽しくなりました。

まず「新聞社が何をしているところなのか」ということを、ちゃんとわかったのがこの時期。ネタはどう探し、取材って誰に聞くのか、それをどう記事にするのか。1年目でわかるべき事柄がわかったのがこの数ヶ月のことだったのでした。

新聞社では、通常入社4〜6年目で、本社へのお呼びがかかる「ドラフト」があります。私が開眼したのは、そのドラフトの直前です。それまでの散々な不行届な事柄を考えれば、記者の評価としては低い異動先もしかたないことでした。

「しかたない」とは書きましたが、ライターの仕事にしがみつきたいという気持ちもありませんでした。会社に対する理解が同僚に比べて極端に浅かったため、その部署が「地位が低い」といった先入観もありませんでした。また、記者と違ってローテーションで勤務が回るため、それまではほとんど休めなかった休日がたくさんあり、必ず休めるというのは、天国のように感じました。

ニュースの仕事に何らかたずさわれたらそれでいい。そんなマインドセットでしたが、それなりに適性はあったようで(これは、兵庫の準支局での最後の4ヶ月があったからだと確信しています)、すぐにワンランク上の仕事を回されるようになりました。

が、わずかそのワンランク上の仕事でも、実は能力が足りなかったと思っています。

続く。

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