ポンコツな私のウツ歴史③結婚編
就職して、「駆け出し時代」は苦労しました。睡眠薬をもらって「感触」を掴んだ時期もありましたが、本社で編集部門に。仕事はとっても楽しかったのですが、、、ここまでで、おや?と思う方は、ミステリーを読んでもすぐに犯人がわかる人ですね。
実は、幼少期から睡眠に問題を抱えていたのは確かだったのです。
そして社会人4年目で睡眠導入剤(デパス)を処方してもらって問題を突破できたのですが、この処方をうけること自体がそもそも、難しいものでした。
まず、時間がない。なので、仕事の合間に「精神科」あるいは「神経科」を掲げるわりと大きな病院に行ってみました。当時すでにインターネットは普及していましたし、「調べる」のは職業上得意分野です。しかし、気軽に相談できる気軽な心療内科が、ちょっと郊外になると「ない」のです。
■「若いんだから健康でしょう」という偏見?
「ここなら処方してもらえるだろう」と行ってみたのは、認知症や、ディープな精神病を扱っている大きい病院で、待ち時間もなかなかのもの。お年寄りに混じって、健康そうに見える20代の女の子が「眠れないんです」と言っても、「努力しなさい、大したことないでしょう」と、医師の顔に書かれているように感じました。
たった一週間ぽっち、デパスをもらい、また1週間後に行く。それでも、それで眠れたから、なんとか時間を工面して通院しました。しかし、当時は心療内科に通っていることを、会社などで言うことはご法度でした。
もしそれを言ったら、会社も上司も、「配慮」しなくてはなりません。
というより、「なんとなくタブー」なのはわかっていたけれど、そのタブーをカミングアウトした結果、どうなるか、というのが、記者4年生の私には分からなかったんです。だから、「相談」ができない。
そんなこんなで、大阪に転勤した際、睡眠導入剤を処方してもらう先をなくしました。
■クリニック不在、また寝不足に
誰にも相談できないまま、土地勘もないところで、また睡眠と闘うことになりました。新聞の編集というのは、基本的に夕方ごろから集まってくるニュースの価値を判断し、なんとか紙面という幅にねじ込んで、夜の9時には印刷に回す、という仕事です。
これが、朝刊しかない時は、毎日夕方に行けばよかったわけですから、問題なかったのですが、今度レベルアップして夕刊もやるようになると、夕刊と朝刊の勤務が混ぜこぜになるわけです。
異動が決まった時、一番心配だったのがこの点でした。「夕刊に起きられるかしら」。
結果として、お酒も飲まず、遊びにもいかず、ひたすら真面目に生活しているのに寝坊が部内で一番多い人、になってしまいました。
周囲の人の生温かい視線で、それでもなんとか生きながらえましたが(若い人が多い職場なので、寝坊は多くが経験しているのですが、腹立たしいことに、そういう人はお酒での失敗だったりするのです)、そういう「自分自身が信用できない」という状況は、誰が悪いわけでもないという前提のもと、「大変にストレスがたまる」のです。
そして、さらに、私が仕事の次に目指していたことも、ぜひともやり遂げねばなりません。それは、結婚です。本当に、20代って忙しいのです。
■結婚したけど、やっぱり眠れない
記者時代から、仲良くしていた男の同僚と、お付き合いしていました。会社には完全に秘密。結婚してからは上司にお願いしたおして、なんとか同居できるようになったのですが、ここで思いもつかなかったのが、「よその男性と毎日寝るという試練」でした。
夫も、30代半ばにさしかかり、仕事としてはどんどん中心に近い仕事が回されるようになり、仕事に没頭している時期でした。夜中までフルスロットルでニュースをねじ込み続ける仕事ですから、興奮状態で家に帰り、私が寝ている(寝られていないこともある)横に入り込むのですが、今日起きた「すごいこと」を伝えたくて「おきてー」などと言う。
新婚さんだから、そんなのもイチャイチャのうちなのですが、イチャイチャも疲れるのです。夫のことは大好きなんだけれど。
そして、疲労と、充実してはいてもストレスも溜まっていただろう夫は、なかなか盛大ないびきをかくようになりました。夫がいびき大王でも、幸せな結婚生活を送っている人を知っています。だから、私がぐうぐう眠れれば、そこまで疲れはしなかった。加えて私にはデパスを処方してくれる医師もいないし、一応子供を設けることもプランにはあったので、そういった精神的な領域の薬を飲むのも憚られました。
旧日本軍がよく使っていた「拷問」は、「眠らせない」というものだったそうです。それぐらい、睡眠不足は「効く」。
あまりにも疲れるので、一時は会社辞めちゃおうと思ったこともありました。
しかし、お給料もよく、かつては「この会社に入れたら死んでもいい」と思った憧れの会社。社内の誰にとってもそれは同じだったので、誰も賛成してくれないのは明白でした。
■やりたいことは全部叶えた。仕事も、上京も、自慢の家も
会社は、自分が寝坊してしまうこと以外は非常に良好な環境でした。みんな優しい。みんな紳士淑女。日々繰り広げられるウィットに富んだ知的な会話。民主主義のあるべき形について議論しあう場。今まさにニュースがつくられていく、その場にいることは、ものすごく刺激的でした。ついていけていない自分がいるのはさておき、ついていけていない私をフォローしてくれる優しい人たちでした。
また、大手マスコミでは報じられないような内緒話を少し聞けると、急に世界が近く感じました。
さらに、メディアに勤務する以上、ニュースの中心地はなんといっても首都・東京です。大阪は大きな都市です。驚くような面白い人がたくさん住む、面白い場所です。街だねでは、耳を疑うような話(幼稚園児にフルマラソンを走らせたとか)や、体育で砲丸投げをしていたら、人に当たって中学生が亡くなったとか。ニュースのさわりを聞いて「ああ、これは大阪やろな」と思うと、大概当たりです。
でも、いくら大都市といっても、都市の役割が違うから、東京とは違うのです。私がメーカーに勤務していたら、「大阪で上等」と思っていたに違いありません。でも、職業が「マスコミ」だった。だから、どうしたって日本のことを考える大きなステージは、東京なのです。夫は東京出身でした。だからもちろん、大阪と東京の役割の違いはわかっていたし、東京に行きたいと切望しました。当時私は彼を応援する立場をとっていたので、彼が先に、そしてそのあとに私も東京へ転勤することが叶いました。
東京での住居は、都心の一等地のタワーマンション、59平米に住みました。家賃は高かったけれど、ダブルインカムで家賃補助もあったので、平気でした。しかし、このタワーマンションが安普請だった。見た目は立派なのですが、ベッドで寝ているときに、夫が帰ってくると、足を運ぶのに合わせて床がユサユサと揺れるのです。また、収納が驚くほど少ない間取りで、まったく夫婦の服が入らない。そもそもは、同居するにあたって引っ越すつもりだったのですが、良いマンションが見つけられず、夫がいる部屋に私が同居することになったのですが、その時点で収納計画が破綻していました。
1年足らずで私は根をあげ、斜め向かいの同じくタワーマンションに引っ越すことにしました。そこは、東京建物の全戸賃貸。ここは、よかった。大きなウォークインクローゼットがあり、そこは夫の荷物(宝物)の収納場所に。2LDKだったので、1部屋をクローゼットに、もう一部屋を寝室にしました。
しかし、今思えば、その頃から、夫が病み始めていました。もともとよく喋る夫婦だったのですが、「死にたい」と口走るようになり、心配で近所の心療内科を夫のために予約しました。しかし夫は診察を拒否。そこで私は滂沱の涙を流したのですが、それを見た医師が「奥さんもちょっと抗うつ剤を飲みましょう」ということで、睡眠薬と抗うつ剤をもらうようになりました。
夫は相変わらず診察を受けなかったのですが、この2番目のマンションでもまた1年。そして、私は念願のマンションを購入することにしました。
住宅地内のヴィンテージマンション、145平米。前の持ち主は2人続けて女優さんでした。外壁は白い石を積んだ可愛らしいマンション。内装にはアメリカのドラマに出てくるようなモールディング(天井の回り縁)を回し、ドアも金具も壁紙もカーテンも家具も、徹底的にこだわり抜きました。アメリカから目が飛び出るような価格のチェアを入れたりもしました。
これで、「学歴」「仕事」「結婚」「素敵な家」が揃ったわけなのですが、ここであるトリガーを引いてしまいます。
続く
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