【考】台詞の存在の仕方について
台詞の在り方は、実に不安定で脆いものだと思います。
例えば、言葉を覚えたばかりの女の子が、無垢な表情で言うたどたどしい「ありがとう」と、選抜予選で敗れ目を潤ませた高校球児が、応援に来てくれた学友に向けて言う「ありがとう」と、病室のベッドの上で、死期迫る夫が妻に優しく言う「ありがとう」では、その在り方は全く違う。
同じ言葉であっても、誰が、いつ、どんな場所で、誰に対して、どのような声色で、表情で、スピードで放ったかによって、その台詞が纏う空気感はまったく異なる。
言葉が持つ本来の意味とは別に、まるで衣装を身につけるかのように、時に派手に、時に美しく、時に荒々しいものへと印象を変えてしまう。
文字に起こしてみると至極当たり前のことですが、いざそれを意識したときに、「台詞」という不安定なものがどのように存在しているのかをしっかり理解、認識してみたいと思いました。
そこで私が始めたのがこの 古今東西の「愛してる」シリーズ です。
地球上に存在する物の中で、特にすてきな台詞である「I LOVE YOU(愛してる)」を、様々なシーンに登場させることで、どのような差が生まれるのかを明らかにする、文学的実験。
1日1つ、この試みに挑みたいと思うので、もしよかったらどのような変化があるのか、一緒に実験経過を見守っていってください。
話は少し変わり。
MITの教授である石井裕氏が以前、こんなことを言っていました。
「芭蕉の句とハイビジョンTVとでは、どちらの情報量が多いか」といった議論になったとき、それについてこられる人を求めています。
通信インフラの発達によって、YoutubeやNetflix、Huluといったサービスを誰しも容易に利用できるようになり、映像との距離が近くなりました。これから先、日常的なコミュニケーションにもますます映像が活用されていくでしょう。
一方、文字との距離はどうでしょうか。簡単なやり取りはスタンプやGIFアニメに置き換えられ、「やばい」や「かわいい」のように、あらゆる意味を内包したコンビニ並みに便利な言葉が蔓延しています。
コミュニケーション速度が早いのは良いけれど、何か大事な物が抜け落ちていってしまわないか、不安でなりません。
先の石井裕氏の哲学的な問いかけに対し、糸井重里氏が明確な指針を掲げてくれていました。
想像力と数百円 新潮文庫
このシリーズは、ビジュアル過多な現代において、僅かな文字数で胸を打つシーンを想像させられるか?という、私の文学的挑戦でもあります。
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