第5話『My little papet』

 時は、一週間前にひるがえる。
 旧校舎の美術室――。そこで、百川ミドリという少女の人生は大きな転機を迎えた。

「わたしと付き合って」

 そよ風がカーテンを躍らせる。日当たりのいい部屋は散らばった画材を洒落たカフェのように醸し込んで、クラシックを雑音でこじらせたみたいな静寂が、痛いほどに目をついてくる。
 なに言ってんだろう、わたし……。
 唐突に漏れた言葉だった。声にした途端、自分でもなにを血迷ったかと、仰天する。
 走ってきた汗が余計に緊張を誘う。膝を抱えて、呼吸を整えて。ぜえぜえ息を切らしながら出した一言目が、それ――?
 眼前の少年はぽかんと口を三秒ほどひらいて、ぱちくりと目をしばたたせた。

「……は?」

 当然の反応が返ってくる。完全に終わった。遅まきながらの冷静さが、逆に頭をオーバーヒートさせる。恥ずかしさで死にそうになる。
 鏡で見れば、煙でも出てるんじゃないだろうか。
 マズい。なにか弁明しなければ。口をぱくつかせ、変な汗を滲ませながら、かろうじて声が出――

「私と付き合って」

 ……、思考が停止した。

「それは聴いた」

「……私と付き合って」

「だから……なんで?」

 まるでそれしか口をきけなくなったかのように、同じ文言を何度も繰り返す。ミドリ自身、自分がとんでもないことを口走ってしまったことに収拾がつかない。
 なおも口を動かそうとぱくつく少女に、少年はあきれるような眼差しを送る。

「――とりあえず、座れば?」

「――うぇ? あ、はい……」

 うながした――といっても、床には画材やらスケッチやらがひしめいているから、かろうじて座れるのは脇の机が積まれたスペースくらいだ。身を任せるしかない。おずおずとすわりこむと、ギコギコ心許ない音を立ててぐらつく。

「で、どうしてそうなったの?」

「……いや、その」

「君がその結論に至ったのは、昨日、屋上うえで女の子を振ったのが原因?」

「……!」

 なぜそれを。言いかけたところで、ここがその真下であることに気づく。加えて、昨日は窓が開いていた。声が聞こえていても不思議じゃない。
 光景を思い出して、自嘲気味に表情が薄れる。

「……私、最低なんだ」

 自己嫌悪の薄笑い。劣等感が思考を埋め尽くす。これまでのこと、昨日のこと。そして、今日のこと。
 全部洗いざらい吐いた。

「このままじゃ、わたしは異質になってしまう……」

 自分でも変なのはわかっている。おかしいと、自分でさえ嗤う。
 体面を保つには限界があった。一人きりで支えてきたそれはもうすぐガタがくる。
 だから共犯者が欲しいと思った、一緒に秘密を共有してくれる人が。
 私以外誰も知らない、私を傷付けることのない。他の誰か。

「君を初めてみたとき、身体のなかに電気が走った。いまここで君を視ていることが、ほんの少し嬉しくなる……だって――」

 だって、君の姿は精巧に作られた女の子のそれで。そうであることが不思議なように、現実に異質さを溶け込ませている。

「だからお願い。私が普通でいるために、アンタを利用させて」

 ○  ○  ○

 
 少女の独白に少年――レンは言葉を発さなかった。
 退屈な話だと思った。興味もない身の上話を聞いて、おもしろみなどない。
 走ったのか、吐息を急きながら絞り出す声は弱々しい。彼女の表情はいまにも泣き出しそうなほど、弱っている。

 そんな顔なのに、第一声から驚くほど明確に思ってもみないことを口走ってきた。
 曰く、付き合ってほしいと。
 少年は首を傾げた。面識は昨日が初めてのはずだが、はて。意味がわからない。
 とりあえずみ込んで事情をきいてみると「利用したい」ときた。

「……」

 これまたド直球。え、なにこれ。非常に回答に困るんですけど。
 ガラクタづくえに三角座りで蹲る少女は、こちらを一切みない。ぽつぽつ語る声を聞き漏らさないようにしながら、内心は明後日の方向に気のびする。
 どうでもいいから早く作業にもどりたいんだけど。ぐずるのもなんだからと、聞いてやったのがバカだった。

 正直、彼としてはその手の話に興味が無い。始め、彼はミドリを歓迎していなかった。
 自分は思慮深い大人でもなければ、セラピストでもない。悩み相談ならほかを当たってもらおう。

 けれど。

「私は普通じゃないから」

 そう発した彼女の、――。
 面輪に光りを灯さない真っ暗な硝子球。
 刹那、感覚を疑った。少女の、目が、存在が、唐突に異彩を放った。
 まるで職人が創り上げたかのような、義眼ドールアイ。その輝きにびびっと機微が触れる。 

 うなじのあたりがちくりと電気に似た熱を発して。彼女に魅入っている。
 作られたガラスのような無感情さ。昨日と同じ、綺麗な目。自分が欲する目の輝き。 
 途端、この少女に興味が沸いた。

 だから覗き込んで、その手に翳してボクの眼球の裏まで焼きつくほどに愛でていたい。
 抉るように瞳に眺めて、彼女の手を握った。すかさず手を絡めて吐息が響くほどの距離で見つめ合う。

「――――ッ、……?」

 戸惑うミドリを前にして、やさしく瞼の輪郭をなぞった。切れ長の睫毛が怯えたように、見つめ返してくる。乱れたYシャツに透ける鎖骨まで眺めついて、ああ、やっぱり。傀儡のような澄んだ目だ。
 もっと。もっとその表情を魅して欲しい。
 風に煽られたデッサンが、ふわりふわりと浮き心地。

 少年の目には、いくつもの糸がみえた。何重にも張られた、彼女を縛る糸。少女はそれに絡まってしまった憐れなお人形なのだ。
 そのなかで、正解の一糸をとって。繊細な指が少女を吊り立たせる。

 さながら、シンデレラをリードをする王子ロミオのように。
 さながら、煮釜から魔法を唱える魔女のように。

「別にいいよ」

 艶かしい指をおべべに侍らせて、少年が囁く。安心させるように、憂いを溶かすように。

「君の恋人になってあげる」

「――――え」

「だから、いいよって」

 あっけらかんと微笑む少年の言葉に思考が追いつかない。

「えっ、チョット待って、何言ってんの……?」

「だから、君の望みどおり恋人になってあげるよって」

「………は?」

 いや――、は? と閉口して数秒頭をリセットする。気づけば、壁際にまで押し寄せられて思うように身動きもとれない。
 よし、一旦落ち着こう。思考と目線をずらしながら、深呼吸をひとつ。

「……本当にいいの?」

 上目遣いが思ったよりも、低かったのは背があまり変わらないからだろうか。見つめ返して、やはり彼はどこまでも少女体型だと感じた。
 さらさらと緩い笹髪がピンと張った睫毛にかかる。不健康そうな血色のした、目のくまがヒドさ。

「別にいいよ、でも――条件がある」

 猫に似た色の瞳が獲物を捕らえたように血走った。途端に身構える。いまのこの状況では、逃げることもできないことに今更ながらに気づいた。
 けれど、そんなミドリの不安とは裏腹に少年の次の言葉はまったく予想のないものだった。

「僕の――――人形になってよ」

 爽やかにあっさりと。そして、太陽みたいな笑顔をのせて。猫背ぎみの体を天秤みたいに揺らいで。危なっかしく細い身体が真っ白に陽を浴びる。
 こんどはミドリが「はぁ?」口を開く番だった。
 順番この渡りに船。どうせやるならお互い利益が欲しいでしょ?

「僕の、人形になって」

 あどけない吐息が、触れた頬を熱くする。子どもの純真さを一切に内包した瞳。それに見入っていて、つい、コクリと首が頷いた。
 人形愛者ピグマリオン。あとでおいおいそう告げられた彼の言葉はひどく陽気で、おそれを感じさせない。
 それが私たちのいう、恋人ニセモノの始まり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?