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議員という職ほどSNSに向かない仕事はない?-誤解・分断・感情を発露する人々-

国会議員や地方議員が自らの主義主張を発信する場としてSNSを利用し始めてから10年以上が経過した。SNSは政治家と有権者との距離をリアルタイムで縮め、インタラクティブなコミュニケーションを取ることができるメディアである。有権者の意見を取り上げたり、政策を共有することができる。

またSNSはマスコミよりも即時性を持つ場合もある。活動内容や議会での立場を公開することで、有権者に対して透明性を示すことも可能である。そして何よりもコストが格段に安いのである。これは広報代金の他、時間的なものも含まれる。

ハッシュタグを使うことでキャンペーンも展開し、さらに支持を集めることもできるだろう。

しかし、現状の政治家とSNSの関係は、こうしたメリットを超えたデメリットが存在するのではないだろうか。

私感で恐縮であるが、国会議員や地方議員はいまいちどSNSとの向き合い方をもう少し考えるべきではないだろうか。

インパクトモンスター

例えば、松川るい参議院議員が自民党女性局を率いてエッフェル塔ポーズを撮影した写真をSNSに投稿した。これは炎上をしたが、野田聖子議員は「女性に対する世論の執拗なたたきだ」と見なして、むしろ女性がイレギュラーな見方をされるというジェンダーバイアスを指摘した。

確かにその一面が存在するのは否めないだろう。男性社会であった政治舞台では男性が問題を起こすのは日常茶飯事であったため、世論は諦念している。そのため、せめて女性は清廉潔白であってほしいと願う世論が存在するのだろう。

しかし、それはとはまた別の見方をしなければならない。そもそも、エッフェル塔ポーズはSNSにアップするようなことだろうか。

有権者が知りたいのは議員の活動近況であり、観光模様ではない。しかし、エッフェル塔で撮影したのならば、パリ五輪があるため行きましたくらいに留め、わざわざ自分たちが写り込むような記念撮影をするほどではない。それをまして有権者に示す必要性はどこにあったのだろうか。議員同士の記念写真で残しておくにとどめるだけで、それを人々に見せつける必要はなかったはずである。

確かに女性局としての広報が存在した。エッフェル塔ポーズはインパクトがあるため、女性局の宣伝としては効果があると予想したのだろう。しかし、結果は逆効果であった。女性局の職務として会合を行っている模様や地元議員、専門家、行政官との記念撮影してアップするならまだ理解できる。しかし、単純にインパクトを狙いたいだけであるのならば、それは公人のする職務とは大きく外れる。昨今の民間企業がTikTokでダンスを踊る場面が冷ややかな視線に晒されるのも、そうした原理だろう。

立憲民主党の杉尾秀哉参議院議員が企業視察の中、休憩時間に演説をして炎上したケースもある。議員のツイートでは視察模様を発信しただけであるが、それが一部の人々の怒りを呼んだ。労働者にとって休憩時間は必要で、わざわざ持論をぶつけるのは迷惑この上ないということだ。

彼にとって不幸であるのは、それが善意によるものだったのか、単純に自分が目立ちたかったのかが読めない点だ。しかし、炎上は彼の人となりを後者と断定した。

また立憲は自由博愛を標榜する旧民主党左派の流れを汲んでいるだけに、半強制的な演説の参加は支持者にも影を落とした可能性もある。

議員活動の一環としてはあるものの、その内容は普通に企業社長や労働者とのさりげない交流模様だけに留めればよかったはずである。しかし、労働者が整列して、時間を割いて、彼の演説に耳を貸したというのはインパクトを狙ったものとしては良かったのだろう。

しかしこのケースも女性局と同様の問題を孕んでおり、インパクトを狙うのが議員の仕事なのだろうかという疑念が残る。何か自分たちの職責をはき違えてはないだろうか。

インパクトを狙うことが、公人としての務めなのか?
それは単にポピュリズムへの憧憬ではないだろうか?

感情に流される公人たち

元維新議員の上西小百合衆議院議員も、SNSが炎上した経験がある。かつては週刊誌などで「ズル休み議員」などと揶揄された彼女であるが、SNS上での問題発言もかなり目立っていた。杉村太蔵氏に対して政策意見の食い違いから「馬鹿」と発信したりするなど放言を行っていたこともまた事実である。

放言を行なった議員は他にもいる。2014年-17年の間、当時鎌倉市議で現神戸市議の上畠寛弘氏氏が在日コリアン二世の男性の実名を公開し、「日本の情勢に懸念を及ぼしかねないと思慮される行動で、朝鮮学校に対する補助金運動に携わっている」、「やくざと変わらない行為」、「出身が出身なだけに怖い」などと発言した。この発言の内容をSNSにも投稿し、物議を呼んだ。

その他にも、問題となった炎上騒動はあるが、いずれも行き過ぎたSNSでの発言で誰かの名誉を著しく傷つけかねない発言である。それを公開性の高いSNS上で発信したのであるからこれも問題である。

しかし、事の本質は異なる。

問題は、公人として活動している人間が、勢いに任せて、感情の赴くままに発言をしていることである。人間誰しも感情を持つのだから当然のように考えられるが、立法機関の代表者である以上、自らの職責に答えるためにはこうした感情はある程度切り離す必要があるだろう。これでは、政治家はただ感情に身を任せたお気持ちだけで立法をしているのだという不信感を与えかねない。

このような議員が増えるということは、それだけ法治国家として理解困難な法案が通過しかねないということもまた肝に銘じておかなければならない。

そもそも、議員であれば、SNSで人を馬鹿にする時間はないはずなのだ。

演説を数でしか評価しない人々

選挙運動において、選挙演説や応援演説をすると、必ずSNSで取り上げられるのが「動員数」を写真でアップすることである。これは「支持者・応援してくれる人たち」との連帯感をアピールするために非常に効果的でしょう。

多くの支持者に認めてもらうかのように演出する候補者を見ると、本質を見失いすぎではないかとも思えてくる。与野党ともに「私たちはこれだけの人数に認められているのだから、少数派は黙っていろ」と言っているようなものではないだろうか?とりわけ、与党政権が数にこだわりだすと、それは全ての国民を守らないといっているようであり、「集団」で少数を圧迫するという大変危険な思想である。

https://x.com/pchip3/status/1869973901855666225

都知事選で石丸候補の演説が合成写真ではないかということが話題になった。ある種のネットミーム化もしたため、筆者も面白いと思ってはいたが、同時にどの政党も、選挙運動において「数」を演出しなければならないということにも違和感を抱いた。

果たして量が全てだろうか?
単純に政策ではなく、候補者のアピール合戦になっていないだろうか。それは果たして政策を重視しているといえるだろうか?

「質の高い支持者」や「正当性」というものを考えず、単純にインプレションだけを増やすなら、政治は「見せかけ」だけに過ぎなくなり、政治の貧困化が進むのではないか。

現にこの弊害は一部で生じている。議員が優れた政策を打ち出したとしても、一部の支持者がそれを邪魔する傾向にある。

例えば、一部の支持者は誰かれ構わず攻撃的になる、候補者を過度に崇拝し、盲目的忠誠を誓う、批判を受け入れないか、タブー視する、ダブルスタンダードを形成するなどである。そして何よりも、問題なのは「政策達成」ではなく「候補者の存続と勝利」が目的化している点である。

暴言には暴言を返すという不毛な争いしか起こさない。

選挙運動を邪魔する、威圧する、支持者の思想や容姿を貶す、これが現代の民主主義の形であることを私たちは誇りに思ってよいのだろうか。

こうした支持者が増えると、優れた候補者や政策も、大多数に信頼されなくなる。だが、これらがたまに市民権を得る場合もある。だが、それで生じるのは常に、感情のまま気の向くままな独裁や経済崩壊であった。ポピュリズムを介したアイドル的議員の政治はその思想よりも、インプレッションに注目されるのである。

インプレゾンビという単語が作られて一年経とうとしているが、SNSではテレビ以上に数字にこだわる環境が整えられてしまっている。

その他の問題

SNSは無料で登録できる代わりに、そのユーザーの意識・無意識が無断で抽出されている。私たちがnoteを利用する際「おすすめ」で出てくる記事は多くが興味のある記事に他ならない。X上でトレンドとして出るものの中には、私たちが普段「いいね」や「リツイート」をおしている内容に近いものが含まれている。

裏を返せば、SNSでは政治家の思考を読み取ることもできるのである。

議員の情報は常にネットに握られてしまうのである。


どうか、政治家は一度SNSの利用を見つめなおしてはいかがだろうか。

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七尾えるも
この度はチップをありがとうございました。